ございますが……」
夫人は鼻をつまらせた。そしてしばらく言葉がつづかなかったが、急に顔をあげて涙のたまった眼をしばたたき、強いて微笑をうかべながら、
「何だかめ入ってしまいますので、これでよさしていただきます。その代りに、これは私の最後のおてんばでございますが、次郎さんが、いつか私に、どなたにも秘密だとおっしゃって、こっそり見せていただいたお歌をすっぱぬくことにいたします。それは、こういうお歌でございます。」
そう言って、夫人はつぎの歌を二度ほどくりかえした。
[#ここから2字下げ]
われをわが忘るる間なし道行けば硝子戸ごとにわが姿見ゆ
[#ここで字下げ終わり]
それから、また言葉をついで、
「次郎さんは、このお歌は、白鳥会の精神とはまるであべこべな心の秘密をうたったもので、人に見せるのは恥かしい、とおっしゃいました。なるほど一ときも自分を忘れることが出来ないということは恥かしいことでございます。けれど、考えてみますと、たいていの人は、そんな人間でございます。そして、そんな人間でありながら、そのことに気がつかないで、いい気になっているものでございます。それこそなお一そう恥かしいことではございますまいか。私は次郎さんのこのお歌を拝見いたしました時に、はっとそのことに気がついたのでございます。自分を忘れることの出来ない自分の醜《みにく》さに、悩みを感じないでは、白鳥会の精神も何もあったものではないと、そう思いまして、私がそれまで、あんまりいい気な人間であったことに、はっきり気がついたのでございます。そのあと、私は何かにつけ、次郎さんのこのお歌を、良寛さんのお歌といっしょに、心の中でくりかえすことにいたしております……。次郎さんの秘密のお歌をすっぱぬいて、おてんばをするつもりなのが、つい自分のざんげ話のようなことになりまして、まため入りそうな気持になってまいりました。これで失礼さしていただきます。」
みんなの視線は、夫人と次郎とに半々にそそがれていた。そしてやや間をおいて思い出したように拍手が起った。次郎はあごを胸にめりこませるようにして顔を伏せていた。
そのあと、大沢の音頭で座をくずし、みんな窓の近くによって、月を見ながら雑談することにした。
月はもうかなり高かった。満月をすぎてわずかに欠けはじめた光の塊《かたまり》が、横長くひいた雲のへりを真白に光らせてそ
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