ます。今から考えると、僕がほんとうに迷い、ほんとうに物ごとを深く考えるようになったのは、その時からのことです。それに、僕は、これも今から考えてのことですが、その時はじめて、ほんとうに知性のゆたかな聡明《そうめい》な婦人の愛情というものを味わうことが出来たと思います。僕はこのことがあって以来、奥さんのどんなお言葉からも、また、僕を見られるどんなお眼の光からも、何かの教えと愛情とを汲《く》みとることが出来るようになりました。その意味で、僕は奥さんをぬきにしては白鳥会を考えることが出来ません。白鳥会から奥さんを失うことは、僕にとっては、先生を失うことと同じように大きな打撃であります。諸君の中にも、いや、恐らく諸君のすべては、僕と同様の感じを抱いていることと信じます。朝倉先生に対する感謝の言葉は、さっきからの諸君の発表でもうつくされていると思うので、僕は、僕らにとって聖母マリアであり、観音菩薩《かんのんぼさつ》であり、こして真に白鳥そのままの役目をつとめていただいた奥さんに感謝する意味で、僕のこの思い出を発表した次第であります。」
 これまでにない力のこもった拍手がおこった。先生夫妻はうなだれており、夫人の眼には涙さえ光っていた。
 かなり間をおいて、夫人はうなだれたまま、低い、しかし、はっきりした声で言った。
「ただ今の次郎さんのお言葉をうけたまわりまして、私、まったく恥ずかしくなってしまいました。あの時のことは、私もぼんやりおぼえていますが、あれは、おてんばの私がつい出しゃばったことを申したに過ぎないのございます。……ただ私は、みなさんとおちかづきになるのが何よりの楽しみでございました。ごぞんじの通り、私には子供がございませんものですから、みなさんのようなお若い方を見ると、ただもうお親しくしていただきたくて、仕方がございません。それで、つい時々おてんばなまねをしてみたくなるのでございます。みなさんに何かお教えするの何のって、私、考えてみたこともございません。どうか、これまでのことを、そう深く大げさにおとりにならないようにお願いいたします。私といたしましては、みなさんに、これまで叔母か姉みたように親しんでいただいたことが、ただもう嬉しくてならなかったのでございまして、私からこそ、みなさんにお礼を申上げなければならないのでございます。……あすは、もうご当地におわかれするので
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