。
「僕は、きょう、良心の自由という言葉と人間の真実という言葉とを覚えました。僕は、これから、どんな時にも、この二つの言葉と、僕たちのために死んでくれた鶏のことを思い出したいと思います。」
朝倉先生や俊亮をはじめ、上級の生徒たちは、いいあわしたように、その生徒の顔を見つめた。
「あの生徒はM少将の息子です。ご存じでしょう、M少将のことは。」
朝倉先生が、そっと俊亮の耳にささやいた。俊亮はうなずいて、一層注意ぶかくその生徒の顔を見つめた。
M少将というのは、満州事変が起る頃まで、陸軍省内に重要な地位を占めていたが、事変について省内で何か烈しく論争したため、急に予備役に編入されたという噂のある人だったのである。
M少将の息子の発言が終ると、それまで沈默をつづけていた次郎が、急に口をきった。
「僕はいま、M君の言葉をきいたとたん、なぜか、僕がこの会に入会して間もないころの、ある夕方のことが、はっきり眼にうかんできたので、それを話すことにします。」
そう前置きして、彼は、文庫の両側にかかっている「白鳥入芦花」の額と、良寛の歌――「いかにしてまことのみちにかなわなむちとせのなかのひとひなりとも」――の掛軸とに眼をやりながら、いつもにないしんみりした調子で話し出した。それは、彼がまだ一年生のころ、朝倉夫人と二人きりで、その額と軸とを前にして、いろいろと問答をした日のことだった。
彼の話は、かなり写実的だった。その時の周囲の光景、たとえは窓の日ざしがどんな工合だったとか、卓の上にはどんな花瓶がのっており、それにどんな花が活《い》けてあったとかいったようなことから、夫人がその時着ていた着物の色のことまで、記憶をたどって話した。そして、その時ふたりの間にとりかわされた対話も、出来るだけ直接話法を用いようと努力した。ことに夫人が、最後に、「芦の花って真白でしょう、その真白な花が一面に咲いている中に、真白な鳥がまいこんだというのですわ。」と言って微笑し、「もうこれでおしまい、ほほほ。」と謎のような笑い声をのこして階下におりて行ったところなどは、まったくその時の夫人の言葉そのままだった。
「僕が、その時のことを、どうしてこんなにはっきり思い出すことが出来るのか、僕自身にもふしぎなくらいですが――」
と、次郎は朝倉夫人の方に眼をやりながらつけ加えた。
「それには理由があると思い
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