表面の現象に欺かれて知性が眠り、判断力がにぶり、良心がその自由を失ってしまうからだ。純真な青年ほど、そうした過失に陥りやすいのだから、よほどしっかりしてもらわなくてはならない。私がお別れするにあたって諸君に言い残すことは、ただこの一点だ。つまり美しい言葉や表面の現象に欺かれて良心を眠らせることがないように、たえず知性をみがき、判断力をたしかにして、ものごとの真相を見究《みきわ》めてもらいたい、というのが私の諸君に対する最後のお願いだ。」
 先生は、そこで、しばらく、遠くの小さい生徒たちの方に眼をやっていたが、
「私が今言ったようなことは、下級生の諸君には十分にはわからなかったかも知れない。しかし諸君が白鳥会員であるかぎり、今すぐにはわからなくても、上級生との交わりを通しておいおいわかって来るだろう。上級生の諸君もどうかそのつもりで、これからの白鳥会を運営してもらいたい。お調子にのらないで、あくまでも冷静に、物ごとの真相を見究め、そこから行動の基準をさがし出す。そういう訓練は、これまでもお互いにやって来たことだが、それをつづけてさえもらえば、下級生の諸君にも、私がさっき言ったようなことが自然にのみこめて来る時があるだろうと思う。」
 先生は、そう言って、またちょっと言葉をとぎらした。そして、ちらと俊亮の横顔をのぞいたあと、口もとにいくらか微笑をうかべながら、
「えらい固くるしい話をしたが、これが私の置土産だ。しかし、もう一つ、置土産がある。それは、五六日もまえから、こころ用意だけはしていたが、今夜君らとこうして会えるとは思っていなかったし、いつ、どこで、どうして諸君のまえに差出したものか、迷っていたところだ。ところが、はからずもこういう機会が恵まれたので、早速差出すことにしたい。それは、私に代って、この白鳥会を指導していただく先生だ。」
 弱い電燈の光と、淡い月の光との交錯する中で、みんなの眼が一せいに光った。恭一と次郎とは、あわてて視線を先生からみんなの方に走らせたあと、顔を伏せた。朝倉夫人は微笑しており、俊亮は泰然としている。
「置土産と言っては甚だ失礼だし、先生というのはあるいは少しあたらないかと思うが、その置土産にしたい先生というのは、実は、こちらにいらっしゃる本田君のお父さんだ。お名は、もう存じあげている人もあるだろうと思うが、俊亮さんとおっしゃる。」
 み
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