にはじかれたように、急に眼をあげて先生を見た。
 彼は、五・一五事件が起きて二三日もたたないある晩、ひとりで先生をたずねたことがあったが、その時、先生が、いつもにない沈痛な顔をして、張作霖《ちょうさくりん》の爆死事件以来、柳条溝《りゅうじょうこう》事件、上海事変、満州建国とつぎつぎに大陸に発生した事件の真相を説明し、もし日本がこのままの勢いでおし進むならば、道義日本の面目はまるつぶれになるであろう。そして国際的には全く孤立の状態に陥《おちい》り、国内的には一種の暗黒時代が来るにちがいない。その結果、国運は隆盛になるどころか、或は百年の後退を余儀なくされるかも知れない、とまで極言したことを思いおこしていた。
(先生は今夜思いきって、みんなにそのことを言おうとしていられるのだ。)
 そう思うと、彼は何か秘密な会合にでも臨《のぞ》んでいるような気になり、一瞬、息をつめ、先生のつぎの言葉に耳をそばたてながら、みんなのそれに対する反応を読もうとして、眼を八方にくばった。
 先生は、しかし、次郎の予想に反して、そうした現実の問題には何ひとつふれず、ごくあっさり話を片づけてしまった。
「時代がいい方に向いていないということについては、いろいろ説明しなければならないこともあるが、今夜は私はそれについて何も言いたくない。言ってもどうにもならないことだし、言わなくても、いすれは諸君が身をもって体験することだと思う。」
 次郎は「おや」という気がして、もう一度先生を見た。先生も、ちょうどその時、次郎の方に視線をそそいでいた。
「しかし、――」
 と、先生は次郎から眼をはなし、
「念のため、ただ一ことだけ言っておきたいことがある。それは、国民の良心が完全にねむらされる時代が来るということだ。このことは、或いは国民の多数が気がつかないでしまうかも知れない。諸君もよほどしっかりしていないと、恐らくそれに気づかないでしまうだろう。それは、悪い時代のいろいろの現象に逐いたてられて、国民の頭が、自分でも気づかないうちに狂ってしまうからだ。しかし、日本にとってこれほど危険なことはない。何が悪い時代だといって、国民の良心が眠らされる時代が来るほど悪い時代はない。そういう時代には、善と悪とがあべこべになり、光栄と恥辱とがその位置をかえ、一時的な喜びのために永遠の喜びが台なしにされ、野心家が権力の地位につい
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