はなかった。先生は見ひらいた眼を二三度しばたたいたあと、坐ったままで、ぽつりぽつり話し出した。その中には次のような言葉があった。
「私は、つい一時間まえまでは、諸君と今夜こうして集まることが出来ようとは少しも思っていなかった。それは、私自身、集まるまいと決心していたからだ。」
「集まるまいと決心していた間は、諸君に言って置きたいことが山ほどあるような気がしていたが、現にこうして集まってみると、ふしぎに何も言うことがないような気がする。これは、おそらく、この集まりが、すみからすみまで人間の真実にみたされているからだと思う。真実にみたされた世界では、言葉というものはあまりその必要がないものなのだ。」
「私が諸君と集まるのをさけたのも、私の人間としての真実であった。それは諸君の真実とはまるで正反対の方向をとっていた。しかし両者の間に矛盾はない。それはいずれも人間の真実だからだ。両者は光と闇のようなものではない。いずれも光で、ただその位置を異にするだけだ。光の交錯《こうさく》は決して闇の原因にはならない。それどころか、それはあらゆる場所から闇を退散させる力なのだ。人間は、だから、それぞれの位置において真実であればいい。いや、それより外に道はないのだ。諸君と私とは、方向のちがった真実を胸に抱いて、現にこうして照らしあっているし、将来も永く照しあうだろう。」
 先生は、そんなことを言ったあと、また眼をつぶった。話が終ったようには思えない。みんなの眼も、耳も、先生の顔に集中している。
 月がのぼりかけたらしく、ほのぼのとした明るさが、庭木をてらしはじめた。
 しばらくして先生はつづけた。
「諸君と一堂に集まる機会は、恐らくこれが最後だろう。しかし、諸君のうちの誰かとは、きっと再びどこかで会えるだろうと期待している。その時、諸君がどんなふうに成長しているかを見るのは、私にとって何よりの楽しみだ。だが、同時に、私には一つの大きな心配がある。それは時代の変化ということだ。諸君と再び会うのが、五年さきになるか、十年さきになるかわからないが、そのころには、時代は今とはずいぶんちがっているだろう。あるいは恐ろしいほどの変化を見せているかも知れない。しかもその変化は、私の考えるところでは、決していい方への変化ではないのだ。――」
 それまで眼を畳の一点におとしてじっときき入っていた次郎は、何か
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