そう。では、ちょっと失礼します。しかし、井戸端より川の方がいいんです。」
 朝倉先生は、袴をぬぐと、ひとりで表の方に出て行った。
 俊亮はそのうしろ姿を見おくりながら、何か可笑《おか》しそうな、しかしいくぶん当惑したような表情をしていたが、その表情が消えると、すぐしんみりした調子で朝倉夫人に言った。
「何だかお別れするような気持がいたしませんね。」
「ほんとに。」
 朝倉夫人は淋しく微笑した。お芳のえくぼが一瞬消えたように見えたが、彼女はそのまま台所の方に立って行った。
 十分もたたないうちに朝倉先生は帰って来た。その時にはもう、卓にはいく品かのご馳走がならんでいた。ぬれたビール瓶やサイダー瓶の周囲に、トマトや、胡瓜《きゅうり》やオムレツの色があざやかだった。
「永いこといて、一度も川にはいったことがありませんでしたが、すいぶんつめたい水ですね。」
 先生はそう言って袴をはき出した。
「どうぞ袴はそのまま。」
 と、俊亮が手で制すると、
「いや、行儀があまりよくない方ですから、袴をつけている方が却って楽なんです。」
 座についてお芳にビールをついでもらいながら、先生はまた川のことを話題にした。
「この辺には水泳の禁止区域でもあるんですか。」
「いいえ、べつに。……何かあったんですか。」
「今、橋から一丁ばかりかみ手の方で、大ぜい泳いでいましたが、私の姿を見ると、しめしあわしたように、大いそぎで逃げ出してしまったんです。」
「変ですね。何かほかにわけがあったんでしょう。」
 俊亮はむすがゆそうな顔をして答えた。
「あるいは中学生ではなかったか、とも思いますが、それにしてもあんなにあわてて逃げるのは変ですね。……恭一君や次郎君はうちにいますか。」

「ええ、いますとも。大沢君もいます。先生がおいでになるまえに、文庫や何か、すっかり片づけておくからと言って、はりきっていたようです。今にごあいさつに出るでしょう。」
 それからお芳に向かって、
「先生がお見えのことほ、わかっているだろうね。」
「さあ、どうですか。」
 と、お芳はのんきそうに答えたが、すぐ立ち上って、
「念のため知らしてまいりましょう。」
 間もなく恭一があわてたようにあいさつに出た。大沢と次郎がつづいてやって来た。俊三も次郎のうしろに坐ってお辞儀をした。
 文庫のことがまず話題になった。朝倉先生はすぐ二階の
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