ろって、栴檀橋から少し上流の、見とおしのきかないところで、水をあびていた。恭一は、二階で、きょう午前中に運びこんだ白鳥会の文庫の整理に夢中になっており、大沢と次郎と俊三とは、背戸《せど》の井戸端で午《ひる》すぎから取りかかった鶏の解剖――それは大沢の表現だったが――のあと始末やら、畑の水まきやらで忙しかった。また、お祖母さんとお芳とお金ちゃんとは、台所でてんてこ舞いをしていなければならなかった。で、先生夫妻がはいって来たときには、表の方は案外ひっそりしていた。
出むかえたのは、ひとり茶の間にいて、待遠しそうに外ばかり眺めていた俊亮だった。
夫妻はすぐ座敷にとおされた。
「はじめてあがりましたが、大変いい所ですね。」
「全くの百姓家です。見晴らしがきくのがとりえでしょうかね。今夜は月ですから、ゆっくりしていただきましょう」
「はじめての終りに心臓強く構えますかね。」
あらたまったあいさつは、どちらからも言わず、そんな言葉がとりかわされた。夫人はただにこにこして、二人の言葉をきいているだけだった。
間もなくお芳がお茶を汲《く》んで出た。
「はじめまして。……どうぞごゆっくり。」
彼女は、ただそれだけ言って引きさがろうとした。俊亮もべつに紹介しようともしない。
「奥さんでいらっしゃいますか。」
と、朝倉夫人が座ぶとんをすべって初対面のあいさつをしたが、くどくない、要領のいいあいさつだった。
夫人のあいさつがすんだあとで、先生もあいさつした。
「ご主人には始終ご厄介になっています。きょうは大変お手数をかけまして。」
そう言ったきりだった。
お芳は二人のあいさつに対して、「はい」とか「いいえ」とか「どうぞ」とか言うだけで、自分からはほとんど口をきかなかった。しかし、べつにまごついているようなふうでもなかった。かなり日にやけた頬に、例の大きなえくぼが柔かいかげを作っているのが、先生夫妻の眼には、いかにも素朴《そぼく》にうつった。
あいさつがすむと、もう古くからの知りあいででもあるかのような気安さが、二組の夫婦の間に流れていた。
「すぐおビールにいたしましょうか、よく冷えていますけれど。」
お芳が言った。
「うむ。奥さんにはサイダーをね。……しかし、先生、ちょっと汗をおふきになりませんか。風呂はわかしておりませんが、井戸端で行水でも。」
俊亮が言うと、
「
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