の連中も罪が深いね。まだ辞令も出ないうちに、送別会の交渉に来るなんて。しかも場所が実乗院と来ている。」
朝倉先生は奥さんと顔見合わせて愉快そうに笑った。次郎は苦笑しながら、
「あんなこと、いけないと思ったんですが、どうせ先生がお断りになるだろうと思って、僕もいいかげんに賛成しておいたんです。」
「まあ、まあ。」
奥さんは手巾《ハンカチ》を口にあてて、しんから可笑しそうに笑った。
「しかし、それをお断りになったんなら、もうほかにうるさいことはないんでしょう。」
「そうでもなさそうだ。うるさいのは生徒ばかりではないからね。とにかく送別式は私の出発の日にやってもらいたいと思っている。式がすんだら、すぐその足で駅に行けるような時間にね。」
「え?」
と、次郎はおどろいたように朝倉先生の顔を見つめ、それから、奥さんの方に視線を転じた。しかし、二人ともすました顔をしている。
「いったい、いつごろご出発です。」
「あさって。」
と、朝倉先生は奥さんを顧みて、
「大丈夫、あさっては立てるだろう。」
「ええ、お二階の文庫さえ片づけば。」
次郎は眼をまるくして二人を見くらべていたが、急にくってかかるように言った。
「すると、僕たち白鳥会員はいつお別れの会をすればいいんです。」
「べつにあらたまってそんな必要もないだろう。」
「先生!」
と、次郎は泣声になり、
「それは無茶です。僕たちは、まだ、先生がこれからどんなお仕事をされるか、まるで知ってないんです。どこに行かれるかも知ってないんです。」
「何をするかは、私自身にもまだはっきりわかっていない。行く先は一先《ひとま》ず東京だ。みんなには君からそう言っておいてくれたまえ。送別式の時には言うつもりではいるがね。」
「先生!」
次郎は叫んでテーブルの上につっ伏した。両肩が大きく波うっている。
「何も激することはない。小さなことにとらわれてはいかんよ。」
「小さなことじゃありません。」
「別れの会なんか、どうでもいいことだよ。もっと永久のことを考えてもらいたいね。」
「永久のことを考えるから、言っているんです。」
次郎はまだつっ伏したままである。
「そりゃ私も、みんなにもう一度集まってもらって、ゆっくり話して置きたいことがないではない。しかし集まらない方がいいんだ。」
「どうしてです。」
次郎は、涙にぬれた眼をしばたたきはが
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