て、
「ごあいさつまわり、すっかり済まして参りましたの。やっぱりおひるぬきになりましたわ。」
「そうか。それはよかった。しかし、おかげで私もおひるぬきさ。」
「あら、お支度はあちらにして置きましたのに。」
「わかっていたよ。しかし、あまり腹もへらなかったのでね。」
「じゃあ、果物でも。……今、帰りに買って来たのがありますから。」
と、奥さんは次郎の方にちょっと眼をやりながら、
「あのう、本田さんのお宅だけは、あすにのばしましたの。今日お父さんにいらしっていただくのに、行きちがいになってもつまりませんので……」
「いいとも。私もどうせおうかがいしなけりゃならないし、都合では誰かに留守居を頼んで、いっしょに行くことにしよう。私は、あす一日あれば、一般のあいさつまわりは済ませるつもりだ。そのあとで、夕方の散歩がてら、ゆっくりおうかがいするのもかえっていいね。」
次郎は、きいていてうれしかった。また、先生夫妻の手さばきのいいのに感心もした。が、同時に、彼の頭に浮かんで来たのは学校の送別式のことだった。彼は先生夫妻をびっくりさせるほどの性急さでたずねた。
「すると、先生、学校の送別式はいつなんです。」
先生夫妻は顔を見合わせた。次郎は二人の眼つきから、直感的にある秘密を見て取ったような気がした。彼はいよいよせきこんだ調子になり、
「まだ学校からは何ともいって来ないんですか。」
「何ともいって来ないことはないさ。」
朝倉先生は考えぶかく答えて、眼をふせたが、すぐ笑顔になり、
「実は、私の方で、まだはっきりした返事を学校にしてないんだよ。」
「どうしてです。」
「いつがいいか、それがまだ私にもはっきりしないのでね。」
「でも、ほかの方へのごあいさつまわりは、もうきまっているんでしょう。」
「そうだ。それは早くすまして置く方がいいんだから。」
「学校の方はおそい方がいいんですか。」
「おそい方がいいというわけでもないが、なるだけうるさいことがないようにしたいと思ってね。」
次郎の頭には、馬田が提案した実乗院での送別会のことが浮かんで来た。
「もう誰か先生の送別会のことをいって来たんですか。」
「ああ。二三日まえ、馬田とほかに二三人、だしぬけにやって来て、そんな話をしていたよ。変なことを思いついたもんだね。」
「それはお断りになったんでしょう。」
「むろん断ったさ。しかしあ
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