だけがいやにきわ立って新しく見えた。
 朝倉先生は、いつもの部屋で次郎を迎えたが、そこには、これまで二階の白鳥会の読書室にあった大きなテーブルがすえてあり、そのまわりに座ぶとんが二三枚しいてあるきりだった。次郎がはいって来るまで、先生はひとりで読書していたらしく、王陽明の伝習録がテーブルの上にふせてあった。
「やっと発表になったよ。」
 次郎を見ると、先生はすぐそう言って笑った。次郎は、お辞儀をしたきり、顔をふせてだまっていた。玄関をあがってここまで来る間に見た家の中の光景が、彼の気持をはげしくゆすぶっていたのである。
「掲示はもう出たのかい。」
「はい。」
「とにかく変なさわぎにならなくてよかったね。」
「はい。」
「君に大変骨を折って貰ったそうで、ありがとう。」
 次郎はやっとまともに先生の顔を見た。先生もまともに次郎を見ていた。深く澄んだ眼の底から、愛情が白百合のように匂って来るのを感じながら、次郎はたずねた。
「僕たちのやっていたこと、先生にもわかっていたんですか。」
「わかっていたよ、あらましのことは。」
「どうしておわかりだったんです。だれか生徒がおたずねしたんですか。」
「生徒は来ない。しかし、君のお父さんが何度も来て下すったんでね。」
「父が?……そうですか。」
 次郎はちょっと意外だった。しかし、考えてみると、ありそうなことではあった。
「来ていただいては君のためによくないと思って、何度もそう申したんだが、お父さんは、『大丈夫だ。次郎も本筋だけは大してまちがっていないようだから』とおっしゃって、まるでとりあわれなかったんだ。」
 次郎の眼はまたひとりでに伏さった。重苦しいほどの幸福感で、急に胸がいっぱいになったのだった。
「荷物がこんなに早く片づいたのも、君のお父さんに何かとお世話を焼いていただいたおかげなんだよ。永いことこの家に住んでいたんで、がらくたあだいぶたまっていたが、それも君のお父さんが一切引きうけて、古道具屋に売って下すったんだ。あんなことにもお心得があるんだね。」
 次郎は幼ないころに経験した自分の家の売立の日のことを思い起し、ちょっとほろにがい気持になったが、一方では、そんな場合の父の超然《ちょうぜん》とした顔付を想像して、何かユーモラスなものを感じた。
「父はそんなことには以前からなれているんです。」
「そうかね、元来商売のお上手
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