そんなこと。」
 肩をゆすぶられた生徒は、おこったように答えた。
「これまでは、辞令の発表といっしょに掲示が出たんじゃなかったかね。」
「そうだったかね。」
「どうして今度は出ないのだろう。」
「まだきまってないからだろう。」
 相手は、まるでそれを問題にしていなかったらしかった。
「そうかなあ。」
 次郎は仕方なしにそう答えたものの、心の中では、相手を低能だと罵《ののし》りたくなるくらいだった。
(学校は朝倉先生の送別式をおそれている。それで、何とかして、それをやらない工夫をしているんだ。)
 彼には、そう疑えてならなかったのである。
 間もなく午後の課業がはじまった。次郎たちのクラスは武道の時間だった。彼は剣道場に入って面をかぶりながら、入学後はじめて朝倉先生を知ったのが、ちょうど剣道の時間の直前だったことを思い出し、何か物悲しい気持にさそいこまれた。あの時、自分が、剣道は何のために稽古をするのか、という質問を出したのに対して、先生は、言下に、「見事に死ぬためだ」と答えられ、その意味を懇《こん》々と教えて下すったが、それがほんとうに理解出来たのは、いつごろのことだったろう。彼はそんなことを考えながら、稽古の相手を選ぶために向こうの側の列を見た。すると正面に大山がおり、そのすぐ隣りに馬田がいた。
(よし、相手は馬田だ――)
 彼は一瞬そう思った。が、同時に彼は胸にひやりとするものを感じた。
(卑怯者! それでおまえは朝倉先生の言われた剣道修行の意味がわかっているといえるのか。馬田と戦うにしても、道はべつにあるはずだ。)
 間もなく稽古はじめの合図で立ちあがったが、彼が選んだ相手は、正面の大山だった。大山はそののんびりした性格どおり、太刀筋に極めて鷹揚《おうよう》なところがあった。しかし決して下手ではなかった。すきだらけのように見えて案外すきがなく、大きくふりおろす太刀先にはきびしい力がこもっていた。次郎の太刀はその俊敏さにおいて級中第一の評があり、大山のそれとはいい対照をなしていた。勝負では次郎の方にいつも勝味があったが、しかし次郎本人は、却って大山の太刀筋をうらやましくも思い尊敬もしていた。
 次郎は大山を相手に選んで、救われたような気持だった。「見事に死ぬ」稽古の相手を、もし生徒の中から選ぶとすれは、それは大山だろう、という気にさえなったのだった。大山の満月の
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