えた。次郎は、少佐の顔は笑っている時よりも怒っている時の方がよほど好感がもてる、と思った。
「そうか、じゃ好きなようにせい。」
 少佐は言いすてて窓をはなれた。床板をふむ靴音があらあらしくひびいて、少佐の姿が消えると、次郎は、すぐ、もとの白楊《ポプラ》の根元に向かって歩き出した。
 彼は、しかし、そこに行きつくまえに、掲示台のまえがいやに静かになっているのに気がついて、思わずその方を見た。生徒たちの沢山の眼が、もうさっきから、じっと自分を見つめていたらしい。彼は思わず眼をそらした。が、すぐ立ちどまって、きっとその方を見かえした。沢山の眼のなかには、急いで彼の視線をさけたものもあった。が、多くの眼はやはり動かなかった。その中には馬田の眼もあった。その眼にはかすかな笑いさえ浮かんでいるように、次郎には思えたのである。
 次郎はしばらくつっ立っていたが、間もなく思いきったように、掲示台に何かってまっすぐに歩き出した。
 彼を見つめていた生徒たちは、すると何かにおどろいたように、一層眼を見はった。しかし、それはほんの一瞬だった。次の瞬間からは、彼らの視線は次第にそれ出し、次郎が彼らの群から十歩ほどのところまで来た時には、もう誰も彼を見ているものはなかった。中には、そ知らぬ顔をして掲示台のまえを立ち去るものもあった。馬田もそのひとりだったが、彼は仲間のひとりと肩をくみ、わざとらしい笑声を立てながら、次郎の来た方とは反対の方に立ち去ったのであった。
 次郎は、何か異様な、つめたい怒り、とでもいったような感じにとらわれたが、ちらと馬田のうしろ姿を見ただけで、すぐ掲示板の方に眼をやった。辞令の文句は宝鏡先生の時と全く同じだった。
「願ニ依リ本職ヲ免ズ」
 何という簡単な、型にはまった文句だろう。どんなに自分たちの尊敬している先生でも、辞表を出せば、ただこの文句一つでわけなく片づけられて行くのだ。そう思って彼はむしょうに腹が立った。
 しかし、次郎の気持を一層刺戟したのは、先生の転任や退職の場合には、その辞令の発表と同時に、いつも送別式の日時が発表される例になっているのに、それについては何の掲示も出ていないことだった。
「おい、君――」
 と、彼はあわてたように、彼の一番近くに立っていた生徒の肩をいきなりゆすぶってたずねた。
「朝倉先生の送別式はいつあるんだい。」
「知らないよ、僕、
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