いた。わら小屋にねていたのを村の青年たちに叩き起されて、白野老人の家につれて行かれたときのことや、田添夫人に見送られて筑後川を下った時のことが、お伽《とぎ》の世界のように思いおこされた。それは彼の現在の世界とはあまりにもかけはなれた世界であった。
「無計画の計画。」
 彼は思わずつぶやいた。あの時の思い出ときってもきれない因縁《いんねん》のあるその言葉が、彼の頭の中に、何かほのぼのとした光を流しこんだのである。同時に、彼は、無性に恭一と大沢との帰省が待ちどおしくなって来た。
(朝倉先生の問題については、二人には、ついうっかりしてまだ何にも知らしていない。帰って来たらさぞおどろくだろう。僕たちのとった態度についてもきっと何か不平を言うに違いない。)
 一方ではそんなことを考えながらも、彼には、二人の帰省が、すべてを解決する鍵《かぎ》のように思われて来たのだった。

    一〇 掲示台

 朝倉先生の退職の辞令が掲示板に書かれて正式に発表されたのは、それから三日目の正午すこしまえだった。生徒の中には、すでにその朝の新聞を見て知っていたものもあり、それが全校につたわっていたので、午休みになってその掲示を見ても、べつにおどろきはしなかった。ただ掲示板のまえに集まって、わざとのようにわいわいさわぐだけだった。
 次郎は掲示を見に行く気にもなれず、校庭の白楊《ポプラ》のかげにただひとり寝ころんで、じっと空をながめた。空には雲ひとひらもなく、白い光がみなぎっていた。風もなかった。彼は孤独のさびしさがしみじみと湧いてくるのを感じた。彼の眼はひとりでにとじた。眼をとじると、しかし、掲示台のまえの生徒たちの軽薄なさわぎがいやに耳につき出したので、彼はまた思いきり大きく眼を見ひらいて空を見つめた。
(きょうは是が非でも朝倉先生をおたずねしてみよう。)
 空を見つめながら、彼はそう思った。
(もう荷造りをはじめていられるかも知れない。)
 そんなことも考えた。すると、がらんとした先生の家の様子が眼にうかんで来て、何か、たえられないような気になった。同時に、思い出されたのは、宝鏡先生の転任の時に、新賀と二人で荷造りの手伝いに行った日のことだった。
(あの時も、いやにさびしい気がした。しかし今のさびしさとは、それはまるで質のちがったさびしさだった。すまないことだが、自分はあの時、宝鏡先生を乞
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