姿が近づくと急に散らばったり、だまりこんでしまって変に白い眼で先生の通りすぎるのを見送ったり、また中には、頓狂な声を出してみんなを笑わせたりすることが多かったし、授業時間中でも、どたばたと廊下をあるく生徒の足音が頻繁《ひんぱん》にきこえ、どの教室でも、生徒たちは茶化したような眼付をして先生の顔をのぞき、平気で私語する、といったようなふうになって来たからである。
 一般の生徒の中には、委員会の腑甲斐《ふがい》なさを真剣になって怒っているものもあった。血書の効果を一種の好奇心をもって期待していたのが、駄目だと知って緊張感を失い、急にだらけた気分になったものもあった。また中には、問題がどう片づこうと、そんなことには大した興味を持たず、ともかくもこの騒ぎで、学校や先生を馬鹿にしてもいい時節が到来したような気になり、むやみとふざけたまねをするものもあった。
 こうしたいろいろの種類の生徒たちの間に、共通の話題になったのは次郎のことであった。
「本田は軟化した。自分で血書を書いておきながら、県庁で父兄会があってからは、一所懸命でみんなをなだめにかかったそうだ。」
 そういう噂が誰いうともなく下級生の間にまで伝わって来た。それだけならまだよかった。
「本田には恋人がある。彼が血書を書いたのも、その恋人に自分の勇気のあるところを見せたかったからだそうだ。」
「その恋人というのが気の弱い女で、この頃では本田が退学されそうだというので、悲観しているらしい。本田が軟化したのもそのためだそうだ。」
「いや、そんなはずはない。その女は本田の親類だが、いつも本田の顔を見るのもきらいだと言っているそうだから、本田が退学されたって悲観するはずがない。」
「しかし、とにかく、本田の態度がその女に動かされていることだけはたしからしい。」
「あるいはそうかも知れん。いやに考えこんだり、気狂いのように人にくってかかったり、意見がぐらぐら変ったりするところは、全く変だ。」
「けしからん奴だ。制裁してやれ。」
「そのうち、きっと何かはじまるだろう。」
 噂は、こうして尾鰭《おひれ》をつけ、それが生徒たちのざわめきに輪をかけることになって来たのだった。
 こうした噂は、むろん次郎の耳にもはいらないわけはなかった。彼はそれが馬田一派の宣伝だと思うと、無性に腹が立った。しかし今は何もかも朝倉先生のために我慢する気で
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