》のほかに、特に生徒一人あたり一円ずつを醵出《きょしゅつ》して何か記念品をおくること、送別式後、校友会委員を中心に有志の生徒を加え、他の先生をまじえないで送別会を開くこと、会場は校外の適当な場所で、出来れば川上の実乗院を選ぶこと、等であった。
川上の実乗院というのは、町から一里半ほど北方の、谷川にそった景色のいい真言宗の寺であるが、そこは、もう七八年もまえ、前々校長の時代に彼らの先輩が大ストライキをやった時、食糧その他の必要品を用意して十日以上も立てこもったという、中学生にとっては特別因縁のある寺なのである。
実乗院のことを言いだしたのは馬田であった。次郎は、馬田の未練さに腹も立ち、情なくも思ったが、どうせ朝倉先生は、生徒だけでやる送別会に顔を出されるはずがない、ことに会場が曰くつきの実乗院であってみればなおさらのことだ、と思ったので、強いて反対もせず、すべてを成行きに任していたのであった。
とにかく、こうして朝倉先生の問題に関するかぎり、校友会の委員会は、その日を最後にして沈默することになり、四人の代表が校長室に出はいりすることも全くなくなった。花山校長は、無論それで大助かりだったし、県当局としても、自分たちのもくろんだ父兄会のききめがあったものとして非常に喜んだ。もっとも、血書撤回が実現しなかったのが、まだいくらか不安の種になって残っており、本田父子に対する疑惑は少しも解消しなかった。しかし、大勢がこうなった以上、大したことはあるまいということで、血書は握りつぶしの肚をきめ、ただ朝倉教諭退職発令の直後を学校の内外で十分警戒しようということになったのである。
もっとも、西山教頭と配属将校とは、校長、県当局ほど楽観的ではなかった。二人に言わせると、すべては生徒たちの「戦術」であった。生徒たちは何か重大な方針を決定しているが、事前にそれを妨害されるのをおそれて、わざと平穏を装っている。その証拠には、留任運動の急先鋒であった生徒たちの沈默にもかかわらず、何でもない生徒たちは却って以前よりざわついており、何となく不安らしい表情をしている、というのである。
なるほど、そう疑って見れば見られないこともなかった。というのは、校友会の委員会が開かれなくなってからは、休み時間になると、校庭といわず、廊下といわず、あちらこちらに十人二十人と集まって何か話しあっており、先生の
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