、誰にも弁解一つせず、新賀や梅本がそんな噂を打消すために骨を折っているときいた時にも、彼の方から、放っといてくれるように頼んだぐらいであった。
 事件が片づいてから、彼は毎日時間どおりに登校し、時間どおりに家にかえった。校内ではいつも沈默がちであり、孤独であった。帰り途には、きまって朝倉先生をたずねてみたいという衝動に駆《か》られたが、それが先生の立場をわるくすることになりはしないかと気づかって、いつも自制した。そして、家に帰るとすぐ、畑や鶏舎の手伝いをやり、夜は、しばらくほってあった学課の勉強や、その他の読書に専念した。
「泰山鳴動して鼠一疋も出なかったね。」――ある日、彼は俊三にそんなふうにひやかされた。
「仕方がないよ。」
「ずいぶん評判がわるいね。」
「僕がかい。」
「そうさ、いろんなこと言っているぜ。」
「ふん……」
「知ってる?」
「知ってるさ。」
「何でも?」
「知ってるよ、何でも。」
「だって恋人があるってことまで言っているんだぜ。多分道江さんのことだろうと思うんだが。」
「ふん……」
 次郎は顔を赤くしながらも、軽蔑するように言った。
「それも知っていたんかい。」
「知っていたよ。」
「知っていて、よくがまんしてるね。」
「言わしとくさ。面倒くさいよ。」
「だって、そんなこと、だまっていていいんかなあ。」
「わるくたって、仕方がないさ。どうせ馬田なんかが言いふらしたんだろう。僕は当分あいつらを相手にせんよ。」
「相手にしてはわるいんかい。」
「僕には考えがあるんだ。」
 次郎は面倒くさそうだった。
「どんな考えだい。」
「うるさいね。今にわかるよ。」
 俊三はぬすむように次郎の顔を見て、にやりと笑った。そしてすぐ蚊帳《かや》にもぐりこんだが、枕に頭をつけながら、彼は小声で口ずさんだ。
「英雄の心緒みだれて麻の如しイ。」
 次郎は腹の底から俊三に対する憎しみの情がわいて来るのを感じた。それは彼が子供のころ俊三に対して抱いていた敵意とはまるで質のちがった、新しい憎しみの情だった。
 彼はその感情をおさえるために、ひらいた本の同じページを見つめたまま、蚊にさされながら、永いこと机によりかかっていなければならなかった。そしてやっと気持をおちつけ、このごろには珍しいほどの長い日記を書いたが、その中にはつぎのような一節があった。

     *

「……僕は今
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