した罵声の中で、微塵も興奮した様子を見せなかった。こうした場合にいかに振舞うべきかを、彼は彼の幼いころの生活から見事に学びとっていたのである。彼は罵声が発せられるごとに、しずかにその方に眼を転じて、無言のままじっとその声の主を見つめた。その眼は冷然と光っており、相手が視線をそらすまでは微動だもしなかった。五人、十人、十五人、と彼がこうしてつぎつぎに相手を見つめて行くうちに、室内は次第に静かになって来た。そして、しまいには、息づまるような沈默の中に石像のようにつっ立っている彼をかこんで、無数の眼が、あるものはおびえたように、あるものは強いて冷笑するように、またあるものはあやしむように、光っているだけであった。
次郎はその様子を見すますと、おもむろに言った。
「君らが何のためにそんなひどいことを言うのか、僕にはよくわかっている。むろん、君らの中には、僕が処罰をおそれて卑怯になったと、本気にそう思って怒っているものもいるだろう。そういう人に対しては、今は何も言わない。僕が何を考えているかは、これからの僕自身の行動で説明するより外にはないからだ。また君らの中には、べつに深い考えもなく、お調子にのって面白半分に野次《やじ》をとばしているものもいるだろう。僕はそういう人に対しては何も言いたくない。僕はそういう人を軽蔑するだけだ。ただ僕は、僕をストライキの邪魔者だと思って僕に対抗している一部の諸君に対しては一言いっておきたいことがあるんだ。」
彼はそう言って、馬田をはじめ、その一派の有力な生徒たちの顔をつぎつぎに見まわした。
誰も彼をまともに見かえすものがない。
「僕は昨日まで諸君のまえで暴力を否定して来たが、――」
と、彼の沈痛な声が気味わるくみんなの鼓膜《こまく》をうった。
「もしも諸君が、今日も僕がそんなふうに考えており、そしてどんな場合にも僕が暴力を用いないと思ったら、それは見当ちがいだ。僕は、不条理を正すために、ほかに方法がないとすれば、暴力もまたやむを得ないと考えるようになったんだ。諸君は朝倉先生のためにストライキをやりたいと言っている。しかしそれは朝倉先生のためでなく却って朝倉先生に背くことになる。それは明らかに不条理だ。だから諸君が、あくまで諸君の主張を押し通そうとするなら、僕は諸君に対して暴力をもってのぞむよりほかない。僕は諸君と血闘をすることも辞しない
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