のではありますまいね。」
「いいえ、決してそんなわけでは……」
「こういう場合には、多少疑わしいことでありましても、おたがいに見たまま聞いたままを、ざっくばらんに話しあってみる方が、却ってよろしいかと存じますが。」
「ごもっともです、実は、それで、私も私の知っている限りのことを申し上げたようなわけで……」
 田上老人はまだ納得しかねるといった顔付をして、立ったままでいる。
 すると俊亮が、今までとじていた眼を見ひらいて、微笑しながら言った。
「田上さん、そのことなら、あなたのお孫さんは恐らくご心配ありますまい。何でしたら、私、よくたしかめた上で、お知らせ申上げてもいいのですが。」
「あなたが? 失礼ですが、あなたはどなたで……」
 と、田上老人は自分のまえの名簿をひきよせた。
「本田ですが……」
「ああ、本田さん。……すると、何ですか、あなたはこの件について何かくわしいことをご存じのお方で?」
「くわしいというほどのことは存じていませんが、平尾さんのおっしゃった急先鋒のうち、一人だけよく存じていますので。」
「ほう。」
 と、田上老人は、眼をかがやかした。しかし、今度はその名前を発表せよとは言わない。みんなはさっきから一心に俊亮の顔を見つめている。
 俊亮はにこにこしながら、
「その一人というのは私のせがれで、実は血書を書いた本人です。」
「ほう。」
 田上老人はまたほうと言った。そして自分がまだ立ったままでいたのに気がついたらしく、いそいで腰をおろしたが、視線は俊亮に注いだままであった。みんなの視線も動かなかった。石のような沈默の中で、俊亮だけがあたりまえの息をしている。
「血書を書くなんて、どうもなま臭くて、私もそれを知りました時は、あまりいい気持はいたしませんでしたが、しかし、せがれにとりましては、それが精一ぱいの良心的な仕事だったらしく思われましたので、むりにやぶいて捨てろとも言いかねたのです。その血書がもとで、各方面に大変なご心配をおかけするようなことになりまして、私といたしましては、ちょっと意外にも感じ恐縮もいたしているわけです。」
 俊亮は、しかし、心から恐縮しているような様子には見えなかった。
 父兄たちの視線がつぎつぎに俊亮をはなれて課長と校長に注がれた。二人は、その時、頬をすれすれによせて、何かささやきあっていたが、しばらくして、課長が言った。

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