校職員の一人だが、身分はあくまでも軍人である。従って、軍の命令なり要求なりを拒むわけにはいかない。そこに苦しいところがあるんだ。たとえば、憲兵隊から君らの動静について報告を求められたとする。本校職員たる曾根としては、出来るだけ君らの不利になることは報告したくないが、軍人としての責任上、報告せざるを得ない。現にきょうも、憲兵隊では、もう君らがこうして集まっていることを知って、さっきからたびたび電話でいろんなことを自分にたずねて来ている。実際困ったことだ。もっとも、困るといっても、これまでは大したこともなかった。血書の陳情《ちんじょう》をしたという以外に、まだこれといって不穏な言動があったということもきいていないし、自分としては、あくまでも、今度の問題は師弟の情誼の問題で思想問題ではない、という立場で報告することが出来たんだ。しかし、今後の情況如何ではそうはいかないだろうと思う。なにぶん、憲兵隊では、はじめっからこれを思想問題だと見て、重大視しているようだし、君らの行動に多少でもそういう徴候《ちょうこう》があれば、自分として、それをかくして置くわけにはいかんのだからね。ことに、西山先生もさっき言われたことだが、軍人志望の者は自重しなくちゃいかん。実をいうと、軍人志望者は、こういう会合に顔を出しているということだけでも問題になるんだ。なお、軍人志望のものでなくても、いずれはみんな軍隊の飯を食わなければならんし、その場合、幹部候補生になるには、やはり中学時代の履歴がものをいうのだから、自重するにこした事はない。」
 話が終るまで、生徒たちは案外静粛だった。しかし、誰も心から感心してきいていたようではなかった。軽蔑と反感をいだきながら、騒いだりしては損だから默っている、といったふうであった。
 新賀をはじめ、そのほかの軍人志望者たちは、緊張するというよりか、むしろてれくさそうな顔をしていた。
「教員適性審査表」を作った森川も、軍人意望の一人だったが、彼は小さな手帳に、西山教頭が曾根少佐のひげの塵をはらっている漫画を描き、その横に、「思想善導楽屋の巻」と題していた。
 みんなの中で、最も真剣な顔をしていたのは、恐らく次郎だったろう。彼は、曾根少佐の話が終ったあと、西山教頭が、「ではこれから君らの考えもききたい」と言ったのを機会にすぐ立ち上って言った。
「先生、質問があります。」
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