級生の一人として君に忠告する。いや、お願いする、どうか約束を守ってくれたまえ。君自身の名誉のために、そして僕たちの尊敬する朝倉先生の名誉のために、いや、朝倉先生がいつも僕たちに言われた人間としての正しさを守るために、僕は心から君にそれをお願いしたいのだ。」
次郎は、そう言いながら一心に馬田の顔の動きを見つめていた。しかし彼の気持は、彼の言葉が終る少しまえ頃から、廊下にいた生徒たちのざわめきによっていくぶんかきみだされがちであった。しかもそのざわめきは、これまでとはちがって、彼の言葉に対する反応からではなく、生徒たちの顔の動きから判断すると、廊下の、教室からは全く見えないところにその原因があるらしかった。それが一層彼の気持をかきみだしていたのである。
馬田も同様であった。彼ははじめのうち、次郎の言葉に対して非常に複雑な反応を示していたが、廊下のざわめきに気がつくと、とかくその方に気をとられがちになった。そして次郎の最後に言った言葉も、次郎が期待したほどには強く彼の心にひびかなかったらしいのである。
ざわめきの原因は、次郎の言葉が終ると、すぐわかった。
「道をあけろ。」
そんな声が、隣の教室のまえあたりから、まずきこえた。すると、入口をふさいでいた生徒たちは、いかにも不服そうな顔をしながら、つぎつぎにうしろの方を押して、いくらかの空間をつくった。
やがてあらわれたのは配属将校の曾根少佐だった。そのあとから西山教頭がはいって来た。ふたりともフェルトのスリッパをはいている。拍車のついた長靴でいつもがらがら音を立てて廊下をあるく曾根少佐としては、それは全く異例なことであった。
生徒間には、曾根少佐は「ひげ」と「がま」のあだ名でとおっていた。鼻下にすばらしく長いひげをたくわえ、その尖端をカイゼル流にもみあげたのが、うしろからでもはっきり見えるくらいなので、ほかにもひげの多い先生が何人かいたにもかかわらず、少佐赴任以来「ひげ」といえばもう少佐にきまったようなものであった。しかし、このあだ名はあまりにも平凡であり、それに第一少佐本人がそう呼ばれるのをむしろ得意にしているようなふうもあったので、有名なわりに生徒たちの興味をひかず、このごろでは「がま」の方がよほど人気があるようである。「がま」の由来は、校庭で蟇《がま》を見つけた一生徒が、しみじみそれを観察しながら、「蟇《が
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