ていた。大山の顔からは、さすがにその満月のような和やかさは失われていなかった。しかし、それでも、口を半ば開き、眼をぱちぱちさしていた様子は、決してふだんの彼ではなかった。
 ただひとり、全然無表情だったといえるのは平尾だった。眼をつぶり、頬杖をついたままの彼の姿勢は、まるで次郎の言葉をきいていなかったかのようにさえ思えた。もしそれが彼の作為の結果だったとすれば、彼は、作為の技術においても、級中の首席を占めるだけの力量をそなえていたといえるであろう。
 平尾とは反対に、最も目立った、しかも他の生徒たちとはまるでちがった種類の表情をしていたのは馬田だった。彼はそのしまりのない口をいよいよしまりなくしていた。これまで彼の顔にうかんでいた彼独特の冷笑は、あとかたもなく消え、眼だけが、いかにも忙しそうに、次郎と廊下の仲間たちの間を往復していた。それは、仲間たちの顔から一途に何かをよみとろうとする努力のように思われた。
 次郎は、みんなの沈默の中に、なかば眼をふせ、しばらく身じろぎもしないで立っていたが、また急に馬田の方に向きなおって、
「馬田! 君は、しかし、まさかあの血書に脅迫を感じたのではあるまいね。」
 今の場合、馬田にとって、これほど皮肉な質問はなかった。そうだと答えても、そうでないと答えても自分の立場がなくなるような気がするのだった。彼は答えなかった。答える代りに、両腕を組み、うそぶくように天井を見た。
「僕は、君が答えたくない気持もよくわかる。」
 と、次郎は少し声をおとして、
「だから、強いて答えを求めようとは思わない。しかし、君は恐らく、脅迫されて血判をしたなどとは絶対に言いたくないだろう。僕自身としても、君の血判が君の自由な意志でおされたものだと信じたいんだ。そう信ずることが君の名誉でもあるし、僕もそれだけ責任がかるくなるわけだからね。だが、それならそれで、その時の君の血判の意味をあくまで尊重してもらいたいんだ。今になって、血書に一応の敬意を表するための血判だったなどと、いい加減なことを言うのは、断じて君の名誉ではあるまい。もし君が脅迫されて約束したというのなら仕方がない。またもし、その約束が正しくない約束だったとするなら、それも仕方がない。しかし、もしそうでなかったら、男子が一旦血をもって結んだ約束だ、あくまでそれを守りぬくのが君の名誉ではないかね。僕は同
前へ 次へ
全184ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング