ると、僕たちの願書も決して完全であったとはいえない。実は、白状すると、あの願書は僕が書いたんだ。僕が書いたことを秘密にしてもらったのは、あの時新賀が説明したとおり、あの願書が僕一人の意志でなくてみんなの総意だと信じていたからだ。しかし、それは僕の思いちがいだった。何よりいけなかったのは、僕があの願書を血で書いたことだ。僕は、あれを書く時には、それが最善の道だと信じきっていた。血をもって願う、それ以上の願いようはない。諸君もこれならきっと共鳴してくれるだろう、そう僕は信じていたのだ。そして諸君が何のぞうさもなく血判をしてくれた時には、僕は実にうれしかった。僕の考えは誤っていなかった、ストライキなどという脅迫的な手段に訴えて、朝倉先生の人格をきずつけるようなことは、誰も好んではいないのだ。そう僕は思って実にうれしかったのだ。しかし、さっきからの様子を見ているうちに、僕はとんでもない思い違いをしていたことに気がついて、恥ずかしくてならない。もし僕が、あの願書を墨で書いていたとしたら、諸君は果してあの時あんなにたやすく僕の考えに同意してくれただろうか。恐らくそうではなかったろう。諸君はもっと自由にめいめいの意見を述べたにちがいないのだ。そうだとすると、僕があの願書を血で書いたということは、諸君の自由な意見を封じ、諸君の血判までを強要したということになるのだ。その証拠がきょうこの会議にはっきりあらわれている。その意味で、僕の血書はやはりストライキと同様、一種の脅迫だったのだ。脅迫によって結ばれた約束が破れるのは当然だ。そしてその結果が、たった今馬田と新賀との間に行われたような、脅迫と脅迫との競合いになるのも当然だ。僕は、諸君に、僕の無自覚によって、すべてのそうした原因を作ったことを心からあやまる。」
 静まりきった、しかし底深く動揺する海のような空気が全体を支配した。みんなの表情はまちまちだった。しかしそれは、おどろきと、あやしみと、好奇と、そしてえたいの知れない感激との、いろいろの割合における混合以外の何ものでもなかった。
 その時まで、額を両手でささえ眼をつぶったままじっと動かないでいた新賀も、いつのまにか首をさしのべ、眉根をよせて、うかがうように次郎を見つめていた。梅本は両腕を組み、のけぞり気味に首をまっすぐに立てて次郎を見ていたが、その眼は怒った人の眼のように鋭く光っ
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