「で、どうでした。やっぱり次郎さんがあやまりなすったんですか。」
「あやまろうにも向こうがてんで相手にしないんだ。芝居だっていうんだよ。尤も、最初にこちらの肚を話してやりゃあ、お内儀も安心して、あいそよく次郎を相手にしてくれたかも知れないがね。しかし、それで次郎をごまかしてしまっちゃせっかくのあいつの真心が恥をかくよ。」
「なあるほど。しかし、次郎さんがあやまらなくてすんだのはよかったですね。実際、あんな奴にあやまるのは、もったいないですよ。」
「はっはっはっ。まあ、しかし、とにかくこれですんだんだ。ついでに店も、ここいらでおしまいにしようかね。お前にいつまでもいやな苦労をかけてもすまないし。」
「店を?……そうですか。」
 と、仙吉の声は、急に低くなった。
「いずれしまうからには、一日も早い方がいい。仕入の方も一つ二つ話をかけていたところだが、今日にも断っておこう。店の方は、ご苦労ついでに、お前の手でしめくくりをつけてみてくれ。どうせ大したこともあるまいが。」
「承知しました。」
「じゃあ、私は、この足で一二相談したいところをまわってくるから、頼むよ。」
 そう言って、俊亮は表の方に行きかけたらしかったが、
「うちの者には、私から話すから、そのつもりでね。それから、次郎はどうした、帰って来たのかね。」
「ええ、二階においででしょう。」
「そうか。……じゃあ、行って来る。」
 次郎は、その時、父のあとを追いかけて、何ということなしにわびたい気持だった。さっき父を疑ってみた気持などもうどこにも残っていなかった。そして、自分はやっぱり素直でない、素直でない頭で、物ごとをひねりまわして考え過ぎるんだ、という気がした。
 だが、それにもかかわらず、彼が「実社会」というものに対してさっき抱いた感じは、まだ決して消えてはいなかった。「幻滅」という言葉の意味も、やはりある力をもって彼にせまっていた。ただ、彼には、もういくらかの心のゆとりが出ていた。春月亭の門のまえで、唾を吐いた時の、あの興奮した気持が、今は、幾日かまえのことのように省みられるのだった。そして、そのゆとりのある気持が、彼に、例の「無計画の計画」という言葉を、ひとりでに思い起させた。
(やっぱり、これも無計画の計画の一つではないだろうか。)
 彼は、今日の事件を、いろいろとその言葉に結びつけて考えてみようとした。しかし、彼の頭ではどう考えても、それがうまく結びつかなかった。無計画の計画どころか、あべこべに、せっかくの計画が無計画の結果に終ったとしか考えられなかったのである。
 こうして、彼の考えのいつものよりどころであったこの言葉も、彼の幻滅感をやわらげ、実社会に対する彼の疑惑を消し去るには、何の役にも立たず、かえって、そんな言葉をよりどころにしていた自分に、ある不安を感ずるような結果にさえなって行くのだった。
 彼は、父が家にいないのを、これまでになく淋しく感じた。父と今日のことをもっと語りあってみたら、きっとこんないやな思いから救ってもらえるだろう、という気がしてならなかったのである。そして、机のまえに坐ったまま、昼飯時になってお芳に階下から呼ばれても、なかなかおりて行こうとしなかった。
 しかし、しぶしぶお膳について飯をかきこんでいるうちに、彼は、ふと朝倉先生をたずねてみょうという気になり、箸をおろすと大急ぎでそとに飛び出した。

    一五 鑿

 次郎が、朝倉先生の玄関の前に立つと、すっかり建具をはずして見透しになっている茶の間から、奥さんが小走りに出て来て、
「あら本田さん、お珍らしいわね。お休みになってから、ちっともお見えにならないものだから、どうなすったのかと思っていましたわ。」
 次郎は、胸の奥に、急に凉しいものを感じた。しかし、顔付は相変らずむっつりして、
「僕、先生にお目にかかりたいんですけれど。」
「そう? 先生は、いま、畑ですの。しばらく二階で本でも読んでいらっしゃい。あたし、先生にすぐそう申して置きますから。」
 次郎は、しかしそう聞くと、
「じゃあ、僕、畑の方に行きます。」
 と、すぐ中門から庭を横ぎって畑に行った。畑は庭つづきで、間を低い生垣で仕切ってあったのである。
 胡瓜や、茄子や、トマトなどのかなりよく生長している中に、朝倉先生は、猿股一つの素っ裸でしゃがみこみ、しきりに草をむしっていたが、次郎が挨拶をすると、かんかん帽をかぶった頭をちょっとねじむけて、
「やあ、本田か。」
 と、言ったきり、また草をむしり出した。
 次郎の張りきって来た気持は、それでちょっと出鼻をくじかれた恰好だったが、先生は、むしった草をかきよせながら、間もなくたずねた。
「ひとりで来たんかい。兄さんは。」
「まだ帰って来ないんです。」
「まだ? ……高等学校はもうとうに休みのはずだがね。」
「今度の休みには帰らないかも知れないって、手紙でいって来ました。」
「帰らない? そうかね。どこかに旅行でもするのかい。」
「そうじゃないと思います。」
「ふうむ?」
 と、先生は、今まで地べたばかり見ていた眼をあげて、次郎を見た。
 次郎は、今日自分がたずねて来たわけを話し出すには、いいきっかけだと思ったが、いざとなると、切り出すのがいやにむずかしくなった。で、
「大沢さんも帰らないそうです。」
 と、つい遠まわしにそんなことを言ってみた。
「大沢も? そうか、じゃあ、二人で大いに頑張って勉強でもする気なんだろう。」
 次郎は、期待に反して、そんなふうにごく無造作に話を片付けられてしまったので、いよいよ切り出しにくくなり、しばらく默って突っ立っていたが、とうとう思いきったように、言った。
「先生、僕……今日は先生に聞いていただきたいことがあるんですが……」
 朝倉先生は、すると、やにわに立ち上った。そして次郎の顔をじっと見おろしたあと、
「そうか。……じゃあ、凉しいところに行こう。」
 二人は、畑と風呂小屋との間に大きく枝を張っている柿の木の陰に腰をおろした。
 次郎は、先生と二人で、こうして腰をおろしてみると、これまで胸につまっていたものが自然に溶けて行くような気がして、話し出すのが何か気恥しく感じられた。しかし、今更默っているわけにも行かず、先す恭一と大沢のことから店の事情、自分が店で仂いてみる決心をしたこと、昨日から今日にいたるまでの春月亭のいきさつ、と、ひととおり彼相応に順序を立てて話して行った。
 話して行くうちに、彼はさすがに自分の感情がひとりでに興奮して来るのを覚えた。そのために、言葉がもつれたり、とぎれたりすることも、しばしばだった。朝倉先生は、しかし、はじめからしまいまで、ほとんど無言に近い静けさできいていた。めったに合槌さえうたなかった。次郎の言葉が、もつれたり、とぎれたりしても、彼の方に顔をふりむけることさえしなかった。その眼は、いつも地べたの一点を凝視しているかのようであった。次郎は、興奮しつつも、先生のその静けさが変に気になった。むろん先生は、ふだんからそう口数の多い方ではない。よほどのことでないかぎり、生徒が話し終らないうちに、中途で口を出すようなことをしないのが、先生の一つの特徴にさえなっていたのである。しかし、それにしても、今日の沈默ぶりはまた格別である。いつものそれとはまるで意味がちがっているらしい。次郎にはそんな気がしてならなかった。そして、それが、彼の興奮する感情をおさえおさえして、話の筋道をみだすことから、どうなり彼を救っていたのである。
 次郎の話が終ってからも、朝倉先生は、
「そうか。……ふむ。」
 と、返事とも、ひとりでうなずいたともつかない言葉を発したきり、しばらくは姿勢もくずさなかった。次郎は、最初手持無沙汰の感じだったが、沈默が永びくにつれて、それが、しだいに気味わるくさえ感じられて来た。彼は何度も先生の横顔をのぞいたり、足もとの草をむしったりした。風呂小屋と背中合わせになっている鶏小屋で、昼寝からさめたらしい鶏の声が、くっくっときこえて来たが、それで沈默がいくらかでも破れたのが、彼には、何かほっとする気持だった。
 鶏の声がきこえ出すと、朝倉先生も、急にいましめを解かれた人のように、手足の姿勢をくずして、顔を次郎の方にねじむけた。その澄んだ眼には、次郎の全く予期しなかった微笑がうかんでいた。同時に、その奥に、あるきびしい光が沈んでいたことも見のがせなかった。
 先生は、ごく静かな、しかし感情のこもった声で言った。
「本田、君は、ちょっとの間に、すばらしい経験をしたものだね。」
 次郎には、しかし、先生の言った意味がすぐにはのみこめなかった。酒甕に水をぶっこんで自分の短慮と卑劣さを暴露し、春月亭をたずねて自分の良心的行為に侮辱を与えられ、いわゆる「実社会」が幻滅の世界以外の何ものでもない、ということを学んだことは、彼にとって、実際、たえがたいほどのみじめな経験でこそあれ、すばらしいなどとは少しも思えないことだったのである。
 彼は、先生に冷やかされているのではないかという気がして、何か憤りに似たものさえ感じた。そして、じっと先生の顔を見あげていると、先生の眼からはしだいに微笑が消え、今まで底に沈んでいたきびしい光がその代りに表面に浮かんで来た。
「だが――」
 と、先生は、その眼で次郎の眼を射返すように見ながら、
「君のさっきからの話しぶりでは、せっかくのすばらしい経験も、まるで台なしになりそうだね。」
 次郎には、この言葉の意味も、よくは通じなかった。しかし、「すばらしい経験」と言われたのが、決して先生の冷やかしではなかった、ということがわかって、意味はわからぬながらも、何か心強い気もした。同時に、それが「台なしになりそうだ」と言われたのが、新しい不安となって、彼の頭を困惑させたのである。
「私の言っていることがわかるかね。」
「わかりません。」
 二人は、眼を見あったまま、ぽつんとそんな問答をとりかわした。そして、それからしばらくは、鶏のくっくっと鳴く声だけが聞えていた。
「君は、いま、狭い崖道を歩いているんだよ。」
 次郎にとって、そんな言葉は、むろんもう少しも珍らしい言葉ではなかった。彼は、しかし、先生の語気や顔付にただならぬものを感じて、汗ばんだ額の下に、大きく眼を見張った。
「君は、これまで、永いあいだ苦労をして険《けわ》しい道をのぼって来たようだが、その道は、これからの踏み出しよう一つで、君をもつと高いところに導いてくれる道にもなるし、君を見る間に破滅させる道にもなるんだ。そして、その大事な踏み出しは、――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えてから、
「一口に言うと、信か不信かでそのよしあしがきまるんだ。わかるかね。」
 次郎にはさっぱりわからなかった。彼は眼を地べたにおとして考えるふうだった。先生は、無理もない、という顔をして、
「信というのは、悪魔の足でも、洗ってやればそれだけきれいになる、と信ずることだ。その反対に、どうせ悪魔の足だ、きれいになるはずがない、と思うのが不信だ。君は、どうやらその不信の仲間入りをしようとしているようだが、そうではないかね。」
 次郎は、やっと、先生の言っている意味がぼんやりながらわかったような気がした。そしてそういう意味でなら、自分が不信の仲間入りをしようとしていると言われても仕方がない、と思った。しかし、悪魔の泥だらけの足が、あまりにも大きく彼の前にのさばっているような気がして、それを洗わないからといって、自分が非難される道理がない、という気も同時にしたのである。彼は返事をしなかった。
 朝倉先生は、彼の気持を見すかすように、
「むろん、世の中には無駄な努力ということもある。また、無駄な努力はしない方が賢明だ、というのもあながち間違いではない。しかし、人間の世の中をてんから疑ってかかって、何をするのも無駄だと考えるようになると、もうその人は崖をふみはずした人間だ。そして、そういう人間になるのも、もともとその人が卑怯だからだ。」
 次郎は、またわけがわからな
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