くなった。七つ八つのころから、自分の最も嫌いだった「卑怯」という言葉が、こんな場合にもあてはまるなどとは、彼の夢にも思っていなかったことなのである。彼は伏せていた眼をあげて先生を見た。
「卑怯というのは、言葉をかえて言うと、自信が足りない、ということだ。一滴の水にも一粒の砂を洗い落す力はあるんだから、それを信ずる人間なら、悪魔の足がどんなに汚れていようと、あとへは引かないはずだ。砂一粒でも落せば、それだけ悪魔の足がきれいになるはずだからね。」
 次郎の頭には、その時、ふと、昨日天満宮のまえで人間の弱さということについて考え、何か眼に見えないものにへり下りたい気持になったことを思いおこした。そして、その気持と、今先生が言った自信という言葉との間に、何かそぐわないものを感じたが、それをどう言いあらわしていいかわからないままに、先生の言うことに耳を傾けていた。
「とにかく人間は絶望するのが一番悪い。料理屋のお内儀に相手にされなかったぐらいのことで、幻滅を感じるなんて、もってのほかだ。」
 朝倉先生の言葉は、これまでになく烈《はげ》しかった。が、すぐ、もとの静かな調子にかえって、
「もっとも、君ぐらいの年頃では、真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。私にも、そんな経験がある。だが、そこを切りぬけるのが、ほんとうの真面目さなんだよ。いつかも白鳥会でみんなに話したとおり、誠は積まなきゃならない。一滴の水の力を信じて、次から次に辛抱づよく一滴を傾ける。そしてそういう人が二人になり、三人になり、十人になり、百人になる。そこに人生の創造があるんだ。」
 次郎は、「真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。」と言った先生の言葉を、決して聞きのがしてはいなかった。それが「もっての外だ」と叱られたあとだけに、一層つよく彼の胸にひびいたのである。そして、そのせいか、そのあとの先生の言葉が、割合にすらすらと、胸に収まるような気がした。
「ミケランゼロという伊太利の彫刻家がね、――」
 と、先生は、いくぶんゆったりした調子になって、
「ある日、友人と二人で散歩をしていた時に、路ばたの草っ原に大理石がころがっているのを見つけた。彼は、しばらくその黒ずんだ膚《はだ》を見つめていたが、急に友人をふりかえって、この石の中に女神が擒《とりこ》にされている、私はそれを救い出さなければならない、と言った。そして、その大理石を自分のアトリエに運びこませ、それから毎日丹念に鑿《のみ》をふるっていたが、とうとう、それを見事な女神の像に刻みあげてしまったそうだ。この話は、何でもないと言ってしまえば、何でもない話だ。彫刻家が自分の気に入った大理石を見つけ出して、それを彫刻するのは、何も珍らしいことではないからね。しかし、考えようでは、人生のすばらしい真理がその中に含まれているとも言えるんだ。どうだい、この話をきいて何か感ずることはないかね。」
 次郎は、ちょっと首をかしげていたが、
「女神が擒《とりこ》にされている、と言ったのが面白いと思います。」
「面白いって、どう面白いんだ。」
 次郎には、説明は出来なかった。彼は、ただ、何とはなしにその言葉が面白く感じられただけだったのである。朝倉先生は微笑しながら、
「その擒にされた女神を救い出さなければならない、と言ったのも、面白いだろう。」
「はい。」
「さすがはミケランゼロだね。」
 そう言われても、ミケランゼロを知らない次郎には、返事のしようがなかった。
「千古の大芸術家だけあって、そんな簡単な言葉の中に、人生の真理を言い破っているんだ。」
 次郎はただ先生の顔を見つめているだけであった。
「わからないかね。」
 と、朝倉先生は、柿の木の根もとに投げ出してあったかんかん帽をかぶり、猿股の塵を払いながら、のっそり立ち上った。そして、
「じゃあ、これは宿題だ。君自身の問題と結びつけて、よく考えてみることだね。」
 次郎は、しかし、そう言われると、何もかも一ぺんにわかったような気がした。彼はやにわに立ち上って、先生のまえに立ちふさがるようにしながら、
「先生、わかりました。」
「どうわかったんだ。」
「人間の世の中は、草っ原にころがっている大理石のようなものです。」
「うむ。」
「その中には、女神のような美しいものが、ちゃんと具わっているんです。」
「うむ、それで?」
「僕たちがそれを刻み出すんです。」
「君が春月亭に行ったのもそのためだったんだね。」
「そうです。」
「しかし、君の鑿はすぐつぶれてしまったんじゃないか。」
「僕、もう一度|研《と》ぎます。」
「研いでもまたつぶれるよ。」
「つぶれたら、また研ぎます。」
 次郎は意気込んでそう答えた。
「そうか。しかし、そう何度もつぶしては研ぎ、つぶしては研ぎしていたんでは、かんじんの鑿がすりきれてしまいはせんかね。」
 朝倉先生は、そう言いながら、笑っていた。次郎はちょっとまごついたふうだったが、すぐ、決然となって、
「僕、間違っていました。僕は決してつぶれない鑿になるんです。」
「しかし、つぶれない鑿なんて、あるかね。」
「あります。」
「どんな鑿だい。」
「それは、先生がさっき仰しゃったように、信ずることです。自分が努力さえすれば、それだけ世の中がよくなると信ずることです。」
「うむ、その通りだ。人間の心の鑿は、彫刻家の鑿とはちがって、そうした信の力さえ失わなければ、決してつぶれるものではない。いや、堅いものにぶっつかればぶっつかるほど、かえって鋭くなって行くのが、人間の心の鑿だ。むろん、人間には過ちというものがある。また、自分のせっかくの真心が通らないで、かえってそのために侮辱をうけることもある。それは君が現に春月亭で経験したとおりだ。過ちを犯せば悔みたくもなるだろうし、侮辱をうけたら腹もたとう。しかし、それはそれでいいんだ。そのために信の力がくじけさえしなければ、後悔の涙も怒りの炎も、そのまますばらしい力となって生きて来るんだ。」
 朝倉先生は、そう言って、両手を次郎の肩にかけ、強くゆすぶりながら、
「いいかね。……あぶないところだったよ。」
 と、いかにも慈愛にみちた眼で次郎の眼に見入った。
 次郎の眼も、しばらくは先生の眼を見つめたまま動かなかった。しかし、その視線はそろそろと先生の裸の胸をすべり、しまいにがくりと地べたに落ちていった。そして、もうその時には、彼の汗ばんだ制服の腕が、その眼からこぼれ落ちるものを拭きとろうとして、急いで顔におしあてられていた。
 朝倉先生は、かなり永いこと同じ姿勢《しせい》で立っていたが、やがて次郎の背をなでるようにして両手をはなし、「君がこれから真剣に考えなけりゃならん問題は――」と、いかにも考えぶかい調子で、
「もしお父さんの事情がそんなふうだとすると、君自身の将来をどうするか、という実際問題だ。さっきからの君の話では、兄さんはもう自分で何とか考えているらしいね。兄さんには大沢という友達もいるから、きっとうまく切りぬけて行くだろう。君も、自分でしっかり考えてみるんだよ。」
 次郎はいそいで涙をふいた。そして、いくぶん恥しそうに顔をあげたが、ただ、
「はい。」
 と答えたきり、また顔をふせた。
「むろん、中学を出るぐらいのことは、何とかなるさ。しかし、そのあとは、そう簡単にはいかんからね。兄さんだって、大沢がついていなけりゃ、ちょっと心配だよ。」
「僕。まだ志望をきめてないんですから、これからよく考えます。」
「うむ、何もいそぐことはない。しかし、あまりぐずぐずもしておれんね。それに、自分の一生に関する実際問題をじっくり考えてみるのは、いい修行だ。春月亭のお内儀なんかと取っくむよりゃ、ずっと取っくみ甲斐があるよ。はっはっはっ。」
 次郎は思わず頭をかいた。朝倉先生は、かんかん帽をとりあげて、
「じゃあ、そろそろまた畑の手入をはじめるかな。どうだい、本田、君も少し手伝わないか。畑にだって、女神が擒にされているかも知れんよ。」
「はい、手伝います。」
 と、次郎は、急いで上衣をぬいだが、下には膚着も何も着ていなかった。色の浅黒い、あまら肉附のよくない胸が、じっくり汗ばんで、柿の葉の濃いみどりの陰にあらわだった。
「しかし、少し喉が乾くね。麦湯のひやしたのがあるはずだから、君、とって来てくれないか。」
「はい。」
 次郎は、風呂小屋をまわって台所の方に走って行ったが、間もなく奥さんと二人で何か楽しそうに話しながら帰って来た。奥さんは手製らしい寒天菓子を盛った小鉢と、コップ二つとを盆にのせて持っており、次郎は、一升入りのガラスびんを抱くようにして持っていた。ガラスびんからは冷たい雫がたれていたが、その中にいっぱいつまった琥珀《こはく》色の液体をすかして、次郎の胸がぼやけて見えた。
「ここの方がよっぽど凉しゅうございますわ。やっぱり木陰ですわね。」
 と、奥さんは、盆を柿の木の根元におろすと、ちょっと梢を仰ぎ、鼻の下の汗を手巾でふいた。
「そりゃあ、家の中より凉しいさ。しかし、今日はここで本田と少し熱っくるしい話をしたんで、案外喉が喝いてしまったよ。」
 朝倉先生は、次郎がなみなみとついでくれたコップに手をやりながら、そう言って笑った。
「そう?」
 と、奥さんは、うなずくとも、たずねるともつかない眼付をして、次郎を見た。次郎は、自分のコップに、ちょうど麦湯をつぎ終ったところだったが、ちらと奥さんの顔をのぞいたきり、きまり悪そうに視線をおとした。
「いかが、本田さん。これ、おいしいのよ。」
 と、奥さんは菓子を盛った鉢を次郎の方にちょっとずらしながら、
「いずれ、そのお話、あたしも白鳥会の時に伺わせていただきますわ。」
「ううむ――」
 と、朝倉先生は、考えていたが、
「白鳥会の話題にするには少し工合がわるいね。問題としては実にいい問題なんだが、本田の家の内輪の事情にも関係があるんだから。」
「そう? じゃあ、あたしも伺わない方がようございますわね。」
 奥さんは、そう言って、いかにも心配そうに次郎を見た。
「いや、お前には知っていて貰った方がいいだろう。これからは、私がいなくても、急に本田の相談相手になって貰わなきゃならん場合もあるだろうからね。」
「あたしがご相談相手に?……どんなことでしょう。あたしに出来ますことか知ら。」
「くわしいことはあとで話すよ。……本田、どうだい、小母さんにだけは話してもいいだろう。」
「ええ。」
 次郎は、少し顔を赧《あか》らめて答えた。彼は、朝倉先生がどんなつもりで奥さんだけに今日の話をしようというのか、その真意は少しもわからなかった。しかし、とにかく、自分のことを何もかも奥さんに知ってもらうことに少しも異存はなかったし、むしろそれにある悦《よろこ》びをさえ感じているのだった。
 朝倉先生は、コップをのみほして、その底を手のひらで撫《な》でながら、奥さんに向かって、
「それはそうと、こないだお前と話していたミケランゼロの話ね。」
「ええ。」
「あの話を今日本田にもきかしてやったんだよ。ちょうどぴったりするものだからね。」
「まあそうでしたの? そんなにぴったりしたんですの?」
 奥さんは、少しはずんだ調子で、どちらにたずねるともなくたずねた。しかし、答えはどちらからもなかった。二人はただ微笑しているだけだった。
「それで、本田さんは、あの意味、ご自分でお解きになりましたの?」
「そりゃあ解いたとも、さすがに苦しんだだけあって、お前なんかのように二日も三日もひねりまわしてはいないよ。そこが遊びと血の出るような体験とのちがいでね。」
「まあ、遊びだなんて。」
 と、奥さんは、心からの不平でもなさそうに笑いながら言ったが、急に眉根をよせて、
「でも、本田さん、そんなにお苦しみになりまして?」
「そりゃあ、本田の年頃にしちゃあ相当の苦しみだったろうよ。とにかく料理屋のお内儀を相手に鑿をふるおうというんだからね。」
「鑿を?」
 奥さんは眼を円くして次郎を見た。
「はっはっはっ。
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