ゃんに、何もお芝居めいてあやまって貰いたくはありませんよ。それよりか、このお酒のおかげで台なしになった春月亭の暖簾《のれん》を、どうして下さるおつもりなのか、それがお伺いしたいんです。」
「あの酒を、もうおつかいでしたか。」
「つかいましたとも。まさか酒屋さんがつかって悪いお酒をお売りになろうとは思っていませんからね。」
「おつかいにならんように、そう言ってあげたはずですが。」
「私の方のお客は、日が暮れてからばかりみえるとは限りませんよ。」
「それは、いよいよ、すまないことでした。」
 俊亮はそう言って、ちょっと眼を落した。お内儀さんは、「それでどうしてくれるんだ」というような眼付をして、俊亮をまともに見つめていたが、俊亮が、そのあと、いっこう口をきかないので、たまりかねたように、
「ねえ、本田さん。」
 と、燗徳利を自分の膝のまえに引きよせ、
「あたしがこのためにどんな赤恥をかいたか、ひととおりお耳に入れて置きますから、ようくきいて置いて下さいよ。昨日は、永年ごひいきのお客が見えましてね、それも久しぶりのお友達と御夕食をめしあがろうというのですよ。あたし、まだお吸物も差上げないうちにお呼びだものですから、何事かと思ってお座敷に出てみますと、そのお客さん、すました顔で私にお盃を下すって、わざわざご自分でついで下さりながら、仰しゃることが変じゃありませんか。お前もこのごろ少し焼きがまわったようだねって。あたし、何のことだかわからなくって、盃を手にもったままご挨拶に困っていますと、今度は、盃はさっさとのんで返すもんだよ、と仰しゃる。そこで、あたしがぐっと飲みほしたっていうわけでございますがね。」
 俊亮は、しかし、いっこうに驚いたようなふうがない。
「なるほど。」
 と、彼は二度ほど軽くうなずいて見せたきりである。お内儀さんは、それがぐっと癪にさわったらしく、
「本田さん!」
 と、燗徳利をわしづかみにして膝を乗り出しながら、
「そのお酒というのがこの銚子のお酒なんですよ。この中にはあんたのお店からいただいたお酒がはいっているんですよ。おわかりでしょうね。」
「ええ、多分そうだろうと思っていました。とんだご災難でしたね。……お気の毒です。」
 俊亮は、まじめくさってそう言ったが、それでお内儀さんの機嫌はいよいよ険悪になった。
「あんた、わざわざ、あたしをばかにしにお出でになったんではありますまいね。」
「むろん、そんなことはありません。」
「じゃあ、いったい、災難とか、お気の毒とかで済ましていられますかね。あたしにこんな赤恥をかかしたそもそものおこりは、どなたなんでしょうね。」
「それは、この子がつい間違ったことをし出かしたからですよ。それも、もとをただせば店の不始末からですがね。それで、実は、二人そろっておわびに上ったわけなんですが……」
 次郎は、父はどうして番頭の肥田のことを言い出さないのだろう、肥田のことを言い出せば、お内儀はぐうの音も出ないだろうのに、と思った。ところが、次郎の驚いたことには、肥田のことは、あべこべにお内儀の方から言い出したのだった。
「ふん、店の不始末だなんて、それで遠まわしに肥田さんのことが仰しゃりたいんでしょう。ようくわかっていますよ。だけど、ねえ、本田さん、もともと肥田さんはこちらからお願いして遊んでいただいたわけではありませんよ。お酒の預証なんかで遊んでもらっちゃあ、だいいち、こちらが迷惑しますし、およしになったらいかがですかって、あたし何度もにがいことを申しあげたくらいですからね。これだけはご承知願っておきますよ。」
「いや、肥田のやったことは、私のやったことも同然ですから、今さら、そんなことをとやかく言ってみたところで仕方のないことです。それよりか、どうでしょう、済んだことは済んだこととして、この子もせっかくあやまりたいと言っているのですから、一応あやまらしてお気持をさっぱりなすって下すっちゃあ。」
「そんなにご丁寧にしていただくには及びませんよ。わるうございましたっていうお言葉だけを、何べん承ったところで、それで水が酒になるものでもなし、きずのついた暖簾がもとどおりになるものでもありませんからね。それに第一、あたしは泣きおとしの手っていうのが大きらいでございましてね。世間様には、よくそんな手をおつかいになる方がありますけれど。ほほほ。」
 俊亮もさすがにちょっと不愉快な顔をしたが、しいて笑いにまぎらして窓のそとを見た。お内儀さんは、その様子を、睨みつけるように見ていたが、
「本田さん――」
 と、いやに調子をおとして、
「そうすると、今日わざわざおいで下すったのは、それだけのご用だったんですね。」
「ええ、実はこの子が、ひとりであやまりにあがりたいと言ったのですが、それじゃあ私も心細い気がしたもんですから……」
「ふふふ。」
 お内儀さんは、鼻の先で笑って、そっぽを向いた。そして長煙管にたばこをつめて手荒にマッチをすり、一服吸ってぷうっと吹き出したあと、
「そりゃあ、この坊ちゃんがどうあってもあやまりたいと仰しゃるのを、あたし、むりにおとめはいたしませんよ。それでこの家の根太《ねだ》にまさかひびも入りますまいからね。ご随意にせりふの一つぐらい言ってご覧になるのも結構でしょうよ。だけど、お芝居はお芝居、ほんとうの世間はほんとうの世間と、ちゃんとけじめだけはつけていただきたいものでございますね。」
 次郎は、もうさっきから、あやまるどころか、座蒲団をつかんでなげつけたいような気になり、何度も父の横顔をのぞいては、その機会をつかもうとしていた。しかし、父が、たまに苦笑するだけでまるで怒りというものを忘れたような顔をしていたので、そのたびに、彼はふるえる膝を懸命に両手でおさえて、我慢していたのである。ところが、今度は、もう父の横顔をのぞいて見る余裕さえ彼にはなかった。彼は思わず右手で座蒲団の端をつかみ、半ば腰をうかして唇をふるわせながら、お内儀さんをにらんだ。
 お内儀さんは、しかし、もうその時に存分に毒づいたあとの小気味よさを見せびらかすかのように、窓の方を向いて、煙管をくわえていた。そして、俊亮が、瞬間、次郎の方に手を突き出して彼を制したのさえ、気がついていないかのようであった。
 俊亮は、今までとはすっかり調子の変った、底力のある声で言った。
「お内儀さん、私は、この子に人間の道だけはふませたいと思って、せっかく自分でもあやまりたいと言うものですから、いっしょにつれて来たんですが、その気持がわかって下さらなきゃあ、いたし方ありません。勘定ずくの取引だけのことなら、何もこの子をつれて来るには及ばなかったんです。いや、私がわざわざ足を運ぶにも及ばなかったんです。あんたの方から何とかお話があるまで待っていりゃあ、それでよかったはずですからね。とにかく、この子は帰すことにしましょう。……じゃあ、次郎、さきにお帰り。」
「父さんは、まだいるんですか。」
 と、次郎は、喰ってかかるように、少し涙のたまった眼をしばたたきながら、言った。
「ああ、父さんには、もう少し用がある。」
 次郎は、しかし、動こうとしない。
「どうしたんだ、さっさとお帰り。」
「僕、父さんといっしょに帰るんです。」
「どうして?……用のないものは、さっさと帰る方がいいんだ。」
 次郎は返事をしないで、じっとお内儀さんの方を見た。お内儀さんは、何か自分に解《げ》せないものを二人の対話の中に感じて、注意ぶかく二人を見くらべている。
「ぐずぐずしないで、さっさと帰るんだ。」
 俊亮が叱るように言った。
「父さんも、もうここには用はないんでしょう。」
「あるんだ。あると言っているんじゃないか。」
「だって、それは、家で待ってたっていいような用じゃありませんか。」
 俊亮は苦笑した。苦笑しながら、ちらっとお内儀さんの顔を見ると、お内儀さんはすごい眼をして次郎をねめつけていた。俊亮はすぐ真顔になって、
「そんなことをお前が言うものじゃない。お前は父さんが言うとおりに、だまって帰ればいいんだ。世の中は右でなけりゃ、すぐ左というものではないからな。……さあ、お帰り。」
 次郎はぷいと立ち上り、お内儀さんには眼もくれないで、あらあらしく廊下に出て行った。
 人気のない、いやな匂いのする土間をとおって外に出ると、道心をふみにじられた憤りと、けがらわしさの感じとが、焼きつくような日光の中で、急に奔騰するのを覚えた。それは、ゆうべ天神の杜を出た時のあのしみじみとした気持とは、あまりにもへだたりのある気持だった。彼は、春月亭の門の前を通る時ペッと唾を吐いたが、お内儀の部屋でお茶一杯ものまされず、からからになっていた口からは、ほとんど何もとび出さなかった。
 歩いて行くうちに、白鳥会で上級生たちの口からおりおり聞かされた「幻滅」という言葉が、ふと頭に浮かんで来た。彼は、その言葉の意味が今はじめてはっきりわかったような気がした。そして大人の作っているいわゆる「実社会」というものが、急に自分たちではどうにもならない、不真面目な世界のように思われて来たのである。
(春月亭のお内儀なんて、特別の人間だ。)
 彼は、一応そうも思ってみた。しかし、その考えは、なぜか、彼の意識の表面を軽く素通りするだけだった。彼の心ほ、すぐそのあとから、ひとりでにお内儀をとおして「実社会」の姿を見ていた。実利のまえには、人間の誠実をむざんにふみにじって顧みない、その冷酷な姿を見ていたのである。
 しかも、彼の疑惑は、――それはさほどに深刻ではなかったかも知れないが、――いつの間にか、父に対してすら向けられていた。彼にとっては、父が彼といっしょに帰らなかったのは、不正と妥協するためだ、とよりほかには考えられなかったのである。
「世の中は、右でなければ、すぐ左というものではないからな。」
 父が最後に言ったそんな言葉が、その時彼には思い出されていた。
(幻滅だ、何もかも幻滅だ。)
 彼は家に帰りつくと、すぐ二階の自分の机のまえにひっくりかえって、心の中で、何度もそうくりかえした。そして、昨日天神の杜の樟《くす》の洞穴の中であれほど苦しんだ自分が、みじめにも腹立たしくも感じられた。この感じは、やがて彼を過去へとさそいこみ、彼自身の永い間の努力の味気なさを感ぜしめた。
 いつの間にか、彼の眼には、春月亭のお内儀といっしょに、お祖母さんの顔がうかんでいた。そして、その二つの顔をとおして、彼は誠実のとおらない「実社会」の姿を、いよいよはっきり見るような気がしたのである。
(白鳥会が何だ。どうせ人間の誠実なんて、泡みたようなものではないか。)
 彼は、しまいには、そんな考えにさえなって行くのだった。しかし、彼は、その考えだけは急いで打消した。というのは、その考えの奥から、朝倉先生の深く澄んだ眼が、誠実そのもののように彼をのぞいていたからである。
 彼は、ふみこんではならない神聖な祭壇に土足をかけたような気がして、われ知らずはね起き、きちんと机の前に坐った。と、ちょうどその時、俊亮が帰って来たらしく、すぐ下の店で仙吉と何か話すのがきこえて来た。次郎は耳をそばだてた。
「へえ、そうですか。私なら、せいぜい半金ぐらいでぶちきって来ましたのに。」
「そうも行くまい。どうせあの酒は役に立つまいからね。」
「しかし、向こうじゃ、煮物のさし酒ぐらいには役に立てるでしょうよ。」
「そりゃそうかも知れんが、そこまでこまかく考えんでもいいさ。」
「じゃあ、こちらに引きとったらどうでしょう。」
「引きとるって、あの酒をかい。」
「ええ。」
「引きとってどうする。」
「どうするってこともありませんが……」
「こちらで捨てるぐらいなら、向こうで役に立ててもらった方がいいよ。」
「でも、それじゃあ癪《しゃく》ですねえ。」
「ふっふっふっ、そんなけちな腹は立てん方がいい。次郎に、世の中にはあんな人間もいるっていうことを教えてもらったと思やあ、ありがたいくらいなもんだよ。」
 次郎は、はっとしたように、首をもたげた
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