たとおり駅に出てみた。駅には先生も生徒もまだ一人も見えていなかった。少しおくれて体操の先生があたふたとやって来たが、二人を見ると、
「宝鏡先生の見送りなら、もう帰ってもいい。一昨日たたれたそうだから、途中でほかの生徒にあったら、そうつたえてくれ。」
二人は、それでも、発車時刻になるまで駅の前あたりをぶらぶらしていた。そのうちに白鳥会員が四五名やって来たが、二人の話をきくと。
「なあんだ、馬鹿にしてらあ。」
と、あっさり帰って行ってしまった、そのほかには生徒は一人も見えなかった。むろん宝鏡先生も見えなかった。
発車のベルが鳴ると、新賀は改札口の方を睨みつけるようにして言った。
「しようのない先生だったなあ。」
次郎は、しかし、いやに淋しい気がした。
(僕たちは、恐らく、もう永久に宝鏡先生に会う機会がないだろう。これは無計画の計画とも少しちがうようだ。)
彼は、その時、そんなことを一人で考えていたのである。
一一 上酒一斗
次郎は、四月以来、恭一と大沢から、熊本城や、阿蘇山や、水前寺などの絵はがきを、何枚も受取っていた。書いてあったことはいずれもごく簡単だったが、二人の愉快そうな生活の様子は、その間からもうかがわれた。次郎はそれを一枚残らず大事に机の抽斗にしまいこんで、おりおり取り出しては見るのだった。
六月末頃になって、恭一からはじめてかなり分厚な手紙が来た。それには学寮生活の様子がこまごまと記してあり、
「ここでは舎監と生徒との関係よりも、生徒相互の関係が重要だ。つまり、生徒がお互いの工夫と努力とで共同生活を建設して行くところに、中学校の寄宿舎などでは味わえない興味がある。こういう生活をやり出してみると、僕らが白鳥会員であったということは、いよいよ大きな力になって行くようだ。大沢君といつもそのことを話している。」
などと感想がつけ加えてあった。
次郎はむさぼるようにそれを読んで行った。しかし、何よりも彼の心を刺戟したのは、手紙の最後になって次のような文句を見出したことだった。
「この頃、お父さんに変ったことはないか。店の商売の様子はどうだ。もし変ったことがあれば、かくさず知らせてくれ。どういう事でも、僕は決して驚かないつもりだ。いよいよとなれば、大沢君にも相談した上で、夏休みには帰らないで、出来るだけの用意をして置きたいと思っている。」
次郎は、それを読んだ瞬間、これまであまり気にもとめないでいた一つの出来事を思い出して、異様な不安に襲われた。それは、開店以来店に坐っていた番頭の肥田が、恭一が熊本にたつ間際に、売掛代金や何かをさらって、急に姿を消してしまったことである。
肥田は、俊亮が村にいたころ、青木医師についで親しくしていた人の末弟にあたる人だが、生来しまりのない男で、方々でしくじったあげく、俊亮の店開きのことを聞きこんで泣きついて来たのを、俊亮が例の侠気《きょうき》と大まかさから、店に使ってやることにしたのだった。そうした事情はいつの間にか次郎にもわかっていたし、それに、肥田が姿を消した時のお祖母さんの騒ぎようはずいぶんひどかったにも拘らず、俊亮自身は割合《わりあい》落ちついており、肥田の兄にそのことを知らしてやったきり、強いて本人の行方を捜そうともしなかったので、彼は、それをさほどの大事件とも思わず、肥田がいなくなって、父はかえって安心したのだろう、ぐらいにしか考えていなかったのである。
彼は、しかし、恭一の手紙で、新たにそのことを思い出し、なお、その後の店の様子などを考えているうちに、このごろ、麦洒《ビール》や日本酒の罎詰をならべた商品棚ががらんとなって来たことや、夕方の忙しくなければならない時間に、二人の小僧たちがぼんやり腰をおろしている様子などが眼に浮かんで来て、不安はいよいよつのって行くはかりだった。
で、彼は、その後、毎日学校の行きかえりに、店の様子にとくべつ注意を払うようになった。すると、気のせいか、さびれは日にまし目立ち、掃除までが行きとどいていないような気がするのだった。ただ、いつもと変らないのは、土間につみあげてある七八本の四斗樽だったが、それも、ある日彼が学校の帰りがけに小僧たちと冗談を言いながら、それとなく指先でたたいてみると、どれもこれも空ばかりのようだった。
彼は、思いきって父に恭一の手紙を見せ、事情をたずねてみようかと考えた。しかし子供のくせにさし出がましいと思われそうな気もし、また、たずねたためにかえって父にいやな思いをさせそうにも思えたので、つい言い出しそびれてしまった。そして、恭一には、それから五六日もたってから、自分の見たままのことを書いて、一先ず返事を出しておいたのである。
そうこうするうちに、一学期も押しつまり、試験の準備に時間をとられたり、宝鏡先生の転任で気をつかったりして、とうとう夏休みを迎えたわけだったが、その間、ともかくも、店の仕事はつづけられ、また、たまには罎詰の数がいくらかふえたり、新しい四斗樽が何本か運びこまれたりしたのを見たので、彼も当初ほどには店のことを気にかけなくなり、何もかも恭一が帰って来た上でのことだという気になっていた。
ところが、恭一は、八月の五六日頃になっても帰って来なかった。それを心配していろいろ言い出したのは、まずお祖母さんだった。次郎もむろん内々心配はしていたが、俊亮の顔色をうかがうだけで、口に出してはそれと言わなかった。俊亮は、ただ、
「どこか、山登りでもして来るんでしょう。」
と、いかにも無造作に言って、なるべくお祖母さんの相手にならない工夫をしているらしかった。
お祖母さんがやいやい言い出してから二日目の夕方、ちょうどみんなが食事をしている時に、恭一から次郎にあてたはがきがついた。それにはこうあった。
「今度の休みは、はじめてのことでもあり、帰ってお土産話をしてみたい気もするが、結局帰らないことに決心した。大沢君も僕と行動を共にしてくれるそうだ。有りがたいと思っている。くわしい事は、お父さんにこないだ手紙を出しておいた。お父さんからの返事はまだもらわないが、むろん許して下さるだろうと思う。……君は、これまでに、強くなる修業をすでに十分つんで来たが、僕はこれからはじめるのだ。いずれ、また近いうちに便りをする。」
次郎は読み終ると、ちらと父の顔を見たが、すぐそ知らぬ顔をして、はがきをズボンのかくしに突っこんだ。しかしお祖母さんの方が、もうさっきから、ちゃぶ台ごしに、そのはがきに眼をつけていたのである。
「恭一からじゃないのかい。」
「ええ。――」
と、次郎はなま返事をして、また父を見た。
「何といって来たんだえ。はがきなんかよこして、まだ帰らないつもりなのかね。」
「今度の休みには、帰らないんですって。」
「なに、帰らない? どうしてだえ。」
「大沢さんも帰らないんですって。」
次郎の返事はとんちんかんだった。
「大沢さんは大沢さんだよ。恭一はどうして帰らないんだね。……どれお見せ、そのはがきを。」
次郎は、父の顔をうかがいながら、気まずそうに、少し皺《しわ》になったはがきをちゃぶ台の上に置いた。
そのあと、俊亮とお祖母さんとの間に、どんな会話がとりかわされ、どんな感情の波をうったかは、省いておく。とにかく、次郎は、二人の言葉で、彼が想像していた以上に店の運転がきかなくなっていることや、恭一が学資の足しを得るために、新聞配達だか、家庭教師だかの仕事を見つけようとしていること、或いはすでに見つけたかも知れないということなどを、あらまし知ることが出来たのである。
その晩、彼は、蚊にさされながら、恭一に長い手紙を書いた。それには、彼が観察したかぎりの家の事情を述べ、恭一の決心と大沢の友情をたたえ、最後に、自分もこの夏休中は店の小僧になって仂いてみるつもりだ、という意味を書きそえた。
彼は、実際、翌日からそのとおりに実行しはじめた。今では番頭格の、徴兵検査を二三年まえにすました仙吉という小僧に教わって、客足のない朝のうちに、彼はまず酒の量《はか》り方を熱心に稽古した。また元桶の酒を売場の甕《かめ》に移すやり方や、水の割りかたなども一通り教わった。そして、午後になると、自分と同い年の文六というもう一人の小僧といっしょに、襯衣《シャツ》一枚になって、徳利を洗ったり、得意先に酒を届けたり、そのほかいろいろの雑用に立ち仂いた。
俊亮も、お祖母さんも、それを見て、いいとも悪いとも言わなかった。しかし二人とも内心喜んでいる様子は少しもなかった。俊亮は、「正木のお祖父さんも、大巻のお祖父さんも、お前の夏休みを楽しんで待っておいでだったがね」と言い、お祖母さんは、俊亮のそんな言葉にも、ただにがりきっているだけだった。
お芳は、例によって、どんな気持で次郎を見ているのか、さっぱりわからなかった。番頭の肥田がいなくなって以来、俊亮の留守のおりには、ちょいちょい店の見張りに出て、何かと店のことも心得ていたせいか、わざわざ次郎の仂いているところにやって来て、自分の気のついたことを教えてやったりするのだったが、それにとくべつの意味があるとも思えなかった。
弟の俊三も、もうそのころは中学の二年だった。――彼は入学試験に次郎のようなしくじりがなかったため、年は二つちがいでも、学校は一年しかちがっていなかったのである。――頭もよく、学校の成績などは、兄弟のうち誰よりもすぐれていたが、末っ子の気持はまだぬけていず、次郎にすすめられても、白鳥会にもはいらなかったぐらいで、家の事情などには、まるで無頓着《むとんちゃく》でいるらしかった。で、次郎が急に店で仂き出しても、「あんなこと面白いんかなあ」といったぐらいの感想をもらすだけだった。
次郎が店の手伝いをやろうと思い立った直接の動機は、むろん恭一の決意に対する同感だった。何だかじっとして居れないというのが、彼が恭一にあてた長い手紙を書いた時の気持だったのである。しかし、理由はただそれだけではなかった。彼には、店の事情をもっとはっきり知りたい、という考えがあった。また、自分が手伝ったために、店がいくらかでもよくなるのではないか、という希望もあった。そうした考えや希望の底に、彼の幼年時代からの好奇心と功名心が全くひそんでいなかったとはいえなかったかも知れない。しかし、彼としては、自分でめったに経験したことのないほど懸命な気持だったのである。
だが、ほんの五六日も仂いているうちに、彼はもう絶望に似たものを感じはじめた。というのは、売場の酒は、特上、上、中、下と、四階段にもわけてあるのに、もとになる酒はほんの一種で、ただ水の割りかたをちがえてあるばかりだったし、それに、そのもとになる酒というのが、必ずしも一定した酒ではなく、始終銘が変っている、ということを発見したからである。彼は、それでも、最初それを知った時には、酒というものはそんなものかしら、とも思い、そっと仙吉にたずねてみたのだった。すると仙吉は、にやにや笑いながら、
「以前にはこんなことはなかったんですよ。何しろこの頃のように仕入れがうまく行かなくなっちゃ、こうでもするより仕方がないでしょう。」
そしていかにも皮肉な調子で、
「しかし、酒の味のわからない家では、今でも買いに来てくれるんですから、ありがたいものですよ。」
次郎は、そうきくと顔から火の出るような気持だった。そして、もうそれで何もかも見透しがついたように思い、仂く元気もなくなったのであるが、さればといって、僅か五六日でよしてしまう気にもなれず、朝倉先生に話してみたらどう言われるだろうか、とか、正木や大巻ではもう知っているだろうか、とか、いろんなことを考えながら、相変らず手伝うことだけはやめずにいた。
すると、それからなお一週間ほどたったある日のこと、変にしゃがれた声で、
「今日は。」
とあいさつして、やけに喉のあたりを扇であおぎながら、店に這入って来た女があった。でっぷり肥った五十前後の白あばたのある女で、小さなまげを結《ゆ》って
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