いた。
 ちょうど午過ぎの、暑いさかりで、ひっそりした店では、仙吉が帳場の机のそばで居眠りをして居り、文六の姿は見えず、次郎が、空樽に腰かけて雑誌を読んでいるところだった。次郎は、顔をあげてその女を見ると、すぐ、どこかで見たことのあるような女だと思った。
「まあ暑いこと。」
 女はそう言って、無遠慮に店先に腰をおろした。そしてじろじろとあたりを見まわしていたが、仙吉がねぼけた眼を自分の方に向けたのを見ると、
「ほほほ、のんきそうだこと。結構なお身分だわ。」
 仙吉の顔はやにわに緊張した。そして、
「いらっしゃいまし。」
 と、いかにも冷淡に言って、膝を立て直した。すると、女は、扇をたたんでそれを帯にはさみ、その代りに何か書付けみたようなものをひっぱり出しながら、
「今日は、こないだの次のぶんを頂戴にあがったんですがね。もうあれから半月以上にもなるし、こちらのご都合もちょうどいい頃かと思って。」
「今日は、あいにく、旦那が留守で、私じゃどうにもなりませんがね。」
 と仙吉は、うわべは恐縮しながら、その中にどこか突っぱなすような調子をこめて答えた。――俊亮は実際留守だったのである。
「旦那がお留守でも、お酒はあるんでしょう。」
「そりゃ、あるにはありますが、何しろ――」
「何しろ、どうなんですの。お酒があれば下さりゃいいじゃありませんか。」
「それが実は……」
「ふふ。この暑いのに、何しろ[#「何しろ」に傍点]、と実は[#「実は」に傍点]を聞きに来たんじゃありませんよ。上酒一斗正に預り候也、――ほれ、この通りちゃんと預証をもって来ているんじゃありませんか。私は、お預けしたお酒を受取りに来たまでなんですがね。」
 女は、帯の間から引き出した書付をひろげて、仙吉のまえに突き出した。
 仙吉はちらとそれに眼をやったが、すぐそっぽを向いてしまった。
「おや。」
 と、女は、その大きな腹を突き出すようにして、少しのけぞりながら、じっと仙吉の横顔を見すえていたが、
「お前さん、まさか、知らん顔をしようというのではないでしょうね。これはお酒の預証なんですよ。上酒一斗を、こちらのお店で預り下すったその証拠なんですよ。」
「わかっていますよ。」
 と、仙吉は相変らず、そっぽを向いて、
「しかし、それじゃあ、旦那があんまりお気の毒じゃありませんか。肥田さんの尻ぬぐいも、もう沢山だと私は思いますがね。」
「じゃあ、この預証は、お店には関係がないというわけですね。」
「そうじゃありません。そりゃこちらの店の判が捺してある以上、知らないとは言いませんよ。それだからこそ、旦那もこれまで苦しいのを我慢して、泥棒に追銭みたいなことをして来たんじゃありませんか。しかし、正直のところ、あんたの方でもそうとことんまで搾《しぼ》りあげなくったってよさそうに思いますよ。あたりまえにお金をいただいての預証と、肥田さんの遊興費とは、だい一わけがちがいますし、それにこちらの事情もまるでおわかりにならんことはないでしょうからね。」
 仙吉は次第に雄弁になって来た。彼は、もうとうに店には見切りをつけているらしかったが、俊亮の人柄には心から敬服して居り、そのために、強いては暇ももらわず、これまで何かと心をつかって、店のやりくりをして来ただけあって、こうした場合、おとなしくばかりはしていなかったのである。
 しかし、相手の女は、仙吉などにやりこめられるほど、なまやさしい女ではないらしかった。彼女は、仙吉に言わせるだけ言わせてしまうと、
「あんたも、若いに似ず、理詰めで来たり、人情にからんだり、なかなか隅に置けないわね。旦那もさぞ心丈夫でしょう、ほほほ。……だけど、どう? 預証はもうこれでおしまいなんだから、いっそさっぱりなすっちゃ。そりゃあ、こちらの旦那としちゃあ、すいぶんご迷惑でしょうともさ。私だって重々お察しはしていますよ。お察ししていればこそ、こうして十日おきとか、半月おきとかに、ぼつぼつお願いして来たんじゃありませんか。それがおしまいの一枚になって、お預けしたものをお返し下さらんということになれば、私の方はとにかくとして、第一、旦那の名折れじゃありませんかね。」
 その声色めいた調子が、ねっとりと仙吉の耳にからみついて行った。仙吉は急にうまい言葉が出て来ないらしく、相手を見つめて、変に口を尖《とが》らした。
 次郎は、さっきから、まばたきもしないで二人の対話をきいていたが、だしぬけに仙吉に言った。
「仙さん、さっさとやっちまったらどうだい。」
 仙吉は、しかし、何か眼で合図《あいず》したきり、返事をしなかった。すると、女が次郎の方を向いて、
「そう、そう。小さい小僧さんの方がよっぽど物わかりがいいわ。じゃあ、あんた、すぐお酒を量って下さいね。」
 と、いかにもおだてるように言って、腰を浮かした。
「お内儀《かみ》さん――」
 と、仙吉は、妙に沈んだ声で、
「それは小僧じゃないんです。こちらの坊ちゃんで、何もご存じないんですがね。」
「坊ちゃん?」
 と、女はちょっといぶかるような顔をしたが、
「坊ちゃんなら、なおいいじゃありませんか。旦那に代って、ああ言って下さるんだから。」
「ところが、実はね。お内儀さん――」
 と仙吉は、いよいよ沈んだ調子で、
「差上げようにも、上洒の方は一斗なんてはいっちゃいませんがね。」
 女は、ぎろりと眼を光らして、売場の甕《かめ》から、土間につんだ四斗樽までを一巡見まわした。そして、
「空《から》なんですね、あれは。」
 と、四斗樽の方にあごをしゃくった。
「実は、そうなんで。」
 女は、立っていって樽をたたいてみるまでのことはしなかった。さればといって、べつに同情するようなふうもなく、何かしばらく考えていたが、
「上酒が足りなきゃあ、足りない分は悪い方で我慢しますよ。とにかく、今日は、さっぱりしてもらおうじゃありませんか。」
「その悪い方も、実は――」
 仙吉は、そう言って首をたれた。すると女は、急に居丈高《いたけだか》になって、
「馬鹿におしでないよ。なんぼなんでも、一斗やそこいらの酒がなくて、お店があけて置かれますかい。」
 とどなりつけた。
 次郎は、もうその時には、すっかりふだんの落ちつきを失っていた。彼はいきなり立ち上り、仙吉に向って罵《ののし》るように言った。
「酒はあるんじゃないか。裏の納屋《なや》にいくらでもあるんだ。僕とって来てやるよ。」
 彼は、仙吉があっけにとられて、まだ返事をしないうちに、もう売場の横の棚にふせてあった汲桶《ため》をおろし、それをさげて、いっさんに台所の方に走って行った。そして、井戸端でそれに水を七分ほども汲むと、それを手のひらで肩のところにかつぎ、定まらない足をふみしめ、ふみしめ、店に帰って来た。
 店では、女が恐ろしい権幕《けんまく》で仙吉に何か食ってかかっているところだった。次郎はしかし、それには頓着せず、上酒の甕の蓋をとって、汲桶の水をその中にざあざあ流しこんだ。
 次郎の顔は、その時、すっかり蒼ざめていた。彼は、しかし、甕の蓋をかぶせ終ると、いくらか血の気をとりもどして、女の方を見た。女は、まだその時まで、仙吉を罵りやめないでいたが、次郎が自分の方を見ているのに気づくと、急ににっこりして、
「坊ちゃん、どうもご苦労さま。おかげでこの人に馬鹿にされないですみましたよ。……じゃあ、量ってもらいましょうかね。今日は容れものを拝借するのもどうかと思って、私の方で持参しましたよ。」
 と、いったん表の方に出て、誰かを手招きした、すると、間もなく、襟に春月亭と染めぬいてある法被《はっぴ》を着た男が、リヤカーに沢山の空罎をのせてやって来た。
 次郎はその空罎が売場に並べられると、甕の栓をひねって、片っぱしから、それに酒をつめて行った。彼の手はいくぶんふるえていた。ただでさえまだ不慣れな手だったので、桝からこほれる酒がやけにあたりに散らばった。
「もったいないわね。」
 女は、そばに立って、次郎の手つきを見ながら、何度もそうつぶやいた。また、
「いやに色がうすいようだね。色だけは灘酒みたいじゃないの。」
 とも言った。次郎は、しかし、一言も口をきかなかった。そして、量り終って、女の手から預証を受取ると、それをその場でずたすたに裂《さ》いた。彼の眼には久方ぶりで涙がにじんでいたのである。
「まあ、この坊ちゃん、恐いこと。でも、あんたのお蔭ですっかり用がすみましたわ。もうこの婆さんも二度とはお伺いしませんから、安心して下さいね。さようなら。」
 女は、それから仙吉の方を見て、
「あんたにも、用さえすめば文句なしだわ。ほほほ。旦那にもよろしくね。」
 仙吉は、その時まで、すっかり肚胆《どぎも》をぬかれたような恰好で、店の上り框に突っ立ち、次郎の方をぽかんと眺めていたが、女にそう言われると、まるでからくり人形のように、ぴょこり頭をさげた。

 次郎は、女が店を出るとすぐ、なるほど学校の通り道に春月亭という料理屋があり、今のはその門口あたりでよく見かける女だった、ということに気がついたのである。

    一二 天神の杜

 さて、さっきから、簾戸《すだれど》一重へだてた茶の間に坐りこんで、聞き耳を立てていたお祖母さんに、店の話声が逐一《ちくいち》聞えていないはずはなかった。お祖母さんは、事の成行しだいでは、自分で店に出て打って、春月亭のお内儀《かみ》と一太刀交える肚になり、半ば腰を浮かしてさえいたのである。ところが、次郎がだしぬけに「酒はいくらでもあるんだ」と叫んで、汲桶《ため》をさげて井戸端の方に走って行ったのを見ると、さすがにちょっと驚いたふうでもあったが、そのまま腰を落ちつけてしまい、それからは、横目でじろじろ店の方を睨んだり、何かひとりでうなずいたりするだけだった。そして、春月亭のお内儀がいよいよ店を出て行ったのがわかると、いかにも皮肉な笑いをうかべて、仕切りの簾をあけ、
「次郎うまくやったね。いい気味だったよ。」
 と、何度も二人にうなずいて見せた。仙吉が、
「しかし、このままではおさまりますまい。かえって藪蛇《やぶへび》になるかも知れませんぜ。」
 と、心配そうに言うと、
「そんな気の弱いことでどうするんだね。渡したものに、まるで酒の気がないというのではあるまいし、文句を言って来たら、こちらの上酒はそんなのでございますって答えてやるまでさ。ねえ、次郎。」
 と、仙吉をたしなめる一方、いかにもそれが次郎の最初からの肚《はら》だったと言わぬはかりの調子だった。
 次郎は、その時までまだ土間に突っ立ったまま、春月亭のお内儀が去った表通りを睨んでいたが、お祖母さんにそう言われると、急にこれまでの興奮からさめてしまった。彼の耳には、お祖母さんの言葉がたまらなく下劣《げれつ》にきこえ、その下劣さが、そのまま自分の行為の下劣さを説明しているということに気がついて、ひやりとするものを感じたのである。
 彼は、何かに驚いたようにお祖母さんの顔を見上げた。それから、そろそろと視線を売場の酒甕の方に転じたが、その眼はしだいに冷たい悲しげな光を帯び、最後に、さっき自分がひねった栓《せん》口に釘付けにされたまま、人形の眼のように動かなくなってしまった。
「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。それに、だいいち思いきりがいいんだよ。仙吉も、こんな時には、少し見習ったらどうだえ。」
 お祖母さんは、次郎の気持にはまるで無頓着らしく、仙吉にそう言うと、すっと頭をひっこめて簾戸をしめた。
 次郎の眼は、その瞬間、稲妻のように動いてお祖母さんのうしろ姿を逐ったが、そのあと、また栓口に釘付けにされてしまい、暑いさかりの土間の空気に、ぴんと氷のように冷たい線を張った。
 彼の動かない眼にひきかえ、彼の頭の中には、たえがたい羞恥《しゅうち》の感情が旋風《せんぷう》のように渦巻いていた。その旋風の中を、朝倉先生夫妻をはじめ、白鳥会で彼が尊敬している生徒たちの顔が、つぎつぎに流れていた。大沢や恭一の顔も、むろんその中にあった。し
前へ 次へ
全25ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング