むろん。」
「論旨って何だい。」
「論旨退学の論旨だよ。」
「先生にもそんなことがあるんだね。」
「あるとも、それがなくって自分からやめる先生なんて、ありゃせんよ。」
「しかし、ホウキョウ・ホウシュン、かわいそうだな。はやく転任でもすりゃいいのに。」
「転任したって、またすぐ駄目になるさ。」
「どうせ引きうける学校もないだろう。」
「やっぱり山伏をやる方が似合っているよ。」
 生徒たちは、そんなことを言っては、笑ったり手をたたいたりした。次郎は、聞いているのがつらくなり、急いでその場をはずした。
 教室に入ってみると、もうそこでも、宝鏡先生のことでみんながわいわいさわいでいた。そして、次郎の顔を見ると、
「やあ、本田が来た、来た。」
「掲示を見たか。」
「どうだ、痛快だろう。」
 などと、くちぐちに次郎に祝意を表するようなことを言うのだった。
 次郎は、しかし、にこりともしないで自分の席に腰をおろした。そして、雑嚢を机の上に置くと、そのまま頬杖をついて、眼を黒板の方に注いだ。
「どうしたい、本田。」
 と、二三人が彼の方によって来た。それでも彼は返事をしない。みんなの視線は、自然と彼の方に集まった。
「ホウキョウ・ホウシュン、やめたぜ。」
 と、誰かが隅の方からどなった。
「知ってるよ。」
 次郎はふりむきもしないで答えた。それから、のそのそと立ち上って、あっけにとられているみんなの顔を一巡見まわしたあと、默って教室を出て行ってしまった。
 次郎が出て行くのとほとんど入れちがいに新賀がはいって来たが、彼は、次郎の机の上の雑嚢を見ると、すぐ隣の席の生徒にたずねた。
「本田はどこへ行ったい?」
「知らんよ。たった今出て行ったんだが、何だか変だったぜ。」
 新賀はちょっと考えた。が、すぐ自分の雑嚢を机の上にほうりなげ、あたふたと次郎のあとを追った。
 間もなく、新賀は次郎を見つけたらしく、二人は、例の銃器庫のかげで、始業の鐘が鳴るまで何か話しあっていた。

     *

 翌日の第一学期終業式の校長の訓辞はごく簡単ですみ、引きつづき宝鏡先生の送別式が行われた。
「宝鏡先生は、今回○○県の○○高等女学校に転任されることになりまして……」
 校長は、先ずそんなふうに紹介の言葉をはじめた。すると、生徒たちは、「おや」という眼をして一せいに顔をうごかした。無資格教師には出向辞令が出ないということを知らなかった彼らは、宝鏡先生は退職したとばかり思いこんでいたのである。次郎もその一人だったが、彼はその瞬間、これまで伏せていた眼をあげて、思わず宝鏡先生を見た。宝鏡先生は、いつもとちがって、職員席の最前列の、しかも、校長席のすぐ隣に、仁王のように厳めしく立っていたが、その汗を浮かしているらしい額も、次郎には、その時、あまり苦にならなかった。
 校長の言葉は、ほんの二三分で終った。そうした場合、事実とちがった月並の讃辞をのべたてるようなことは、これまで校長の決してやらないことだったが、宝鏡先生についても、校長は、ただ次のようなことを述べたきりだった。
「先生が御在任中、ただの一時間も授業を休まれないで、諸君の教育に当って下すったことは感謝にたえない。これは、先生の御健康のたまものであるが、また私事をもって公事をおろそかにされない先生の御精神が然らしめたものだと思う。私は、それを先生が本校に遺された最大の教訓として、諸君と共に有りがたくおうけしたいと思う。」
 次郎は、宝鏡先生がそれだけでも校長にほめてもらったことが、何かうれしかった。しかし、とりわけ彼の心にしみたのは、校長がそのあとにのべた言葉だった。
「諸君は、今後、いつ先生と再会の期があるかわからないが、一たび結ばれた師弟の縁は永久に消えるものではない。それは親子の縁が永久であるのと同様である。諸君が将来、社会的にどんな高い地位につこうと、或はその反対に、どんな逆境に沈もうと、宝鏡先生はやはり諸君の先生として、諸君を見て下さるだろう。私は、諸君が将来どこかで先生の膝下に参じ、過去の思い出を語りあい、更に何かとお教えを乞う機会があることを確信する。」
 次郎は、変に悲しいような気持になって、首を垂れた。
 やがて宝鏡先生が校長に代って壇に立ったが、その顔はいくぶん蒼ざめて硬《こわ》ばっていた。先生は、先ず手巾《ハンカチ》で顔の汗をふき、どこを見るともなく、その大きな眼をきょろきょろさせた。それから、だしぬけにどなるような声で挨拶をはじめたが、それには順序も何もなかった。ただ、不思議に言葉だけは滔々《とうとう》とつづき、しかも「授業を一時間も休まなかった」とか、「私事をもって公事をおろそかにしなかった」とかいうような、校長のほめ言葉を何度も自分でくりかえしては、やたらに謙遜《けんそん》したり、感激したりした。
 次郎はきいていてはらはらした。近くの生徒たちの中には、可笑しさをこらえて、肱でつっつきあったりする者もあった。先生たちの顔も変にゆがんでいる。その中で、いつもと少しも変らない顔をしているのは、校長と朝倉先生だけだった。校長の眼は厳粛で、しかも温かだった。朝倉先生の眼はふかぶかと澄んで静かだった。次郎は、二人の眼を見た瞬間、何か大事なことを教えられたような気がした。彼の注意は、それから、二人の顔にすいつけられて、宝鏡先生の言葉がほとんど耳にはいらなかった。
 宝鏡先生が壇をくだると、生徒席の方から、五年生の一人が進み出て、送別の辞を述べたが、これは紋切型で、しかも一分とはかからなかった。最後に体操の先生から、宝鏡先生の出発の日取りや汽車の時刻が発表され。休暇中だからそろってお見送りは出来ない、市内の者で出来るだけお見送りするように、との注意があって、送別式はともかくも無事に済んだ。
 次郎は、何かほっとした気持で、講堂を出た。すると、新賀が彼と肩を並べながら、言った。
「どうだい、今すぐ行こうか。」
「うむ。」
 二人は、その足で、いっしょに生徒監室に行き、朝倉先生の机のそばに立った。次郎はいくぶんはにかみながら、
「先生、僕、宝鏡先生にお会いして、あやまって置きたいと思います。」
「ほう。――」
 と、朝倉先生は、何か書類を読んでいた眼を次郎の方に転じて、しばらくその顔を見つめていたが、
「うむ、そうか。それはいいね。しかし、いっそあやまるんなら、もう学校でない方がいい。お宅をお訪ねしたらどうだい。あと三四日は間があるんだから。」
 次郎は新賀の方をふりむいた。二人はすぐうなずきあった。
「新賀は?」
 と、二人の様子を見ていた朝倉先生は、不審そうにたずねた。
「僕も、本田君といっしょに行くんです。」
「どうして? 本田一人ではいけないのかい。」
「僕もあやまることがあるんです。」
 朝倉先生はちょっと考えていたが、
「そうか。うむ、うむ。」
 と、いかにも感慨《かんがい》深かそうにうなずいて、
「よかろう。じゃあ、二人で行きたまえ。」
 二人は、すぐお辞儀をして、歩き出そうとした。すると、先生は、
「しかし、あやまるったって、今さら何もかしこまって、あの時のことを言い出す必要はない。あの時のことにはふれないで、何か荷造りのお手伝いでもしてあげるんだな。」
 二人は、それから、いったんめいめいの家に帰ったが、夕飯をすますと、そろって宝鏡先生をたずねた。形式ばってあやまらなくてもいい、という朝倉先生の注意が、二人を非常に気軽な気持にさせているらしかった。
 宝鏡先生の家は、町はずれに近い、間口二間の古ぼけた店屋のあとで、玄関も何もなかった。二人がその土間にはいった時には、まだそとは明るかったが、蚊のうなりがぶんぶん聞えていた。宝鏡先生は、糊気のない、よれよれの浴衣の襟をはだけ、胸毛をのぞかせて出て来たが、土間に立っている生徒の一人が次郎だとわかると、ちょっといやな顔をした。そして、次郎よりもずっと体格のいい新賀がそのうしろに突っ立っているのを、うさんくさそうに見たあと、
「本田と新賀じゃな。何しに来たんじゃ。」
 と、いくぶん身構えるような態度で言った。
 二人は、少からず面喰らった。しかし、どちらも、それで腹を立てたような様子はなかった。次郎はぴょこりと頭をさげて、
「新賀君と二人で、お荷物のお手伝いに来ました。」
 先生は、拍子ぬけがしたように、二人の顔を見くらべた。しかし、まだ安心がならぬといった眼をして、
「荷物の手伝い? それはもう人をやとってあるんじゃ。」
「そんなら、何か使い走りでもさして下さい。何でもやります。」
 今度は、新賀が言った。
「うむ。――」
 と、先生は、急に二人から眼をはなした。同時に、首をそろそろと垂れはじめたが、垂れ終ったところで、何かを払いのけるように、二三度それを横に振った。
 蚊のうなりが、その時、異様に高くひびいて三人を包んだ。しばらくして、
「よう来てくれたな。」
 と、先生は首を垂れたまま、両手を帯のあたりに組みあわせた。
 そのあと、また、かなり永いこと沈默がつづいたが、
「まあ、二階にあがってくれ。話があるんじゃ。」
 二人は先生のあとについて、二階にあがった。八畳の、天井の低い部屋で、床の間はあったが、軸物一つかかっていなかった。安物の机が一脚と、その上に四五冊の数学の参考書を立てた木立が置いてあるきり、部屋中ががらんとしていた。窓のそとはすぐ隣の屋根で、あいだには青い葉一つ見えなかった。
 三人は座蒲団なしで坐ったが、坐るとすぐ、宝鏡先生はもう一度、
「よく来てくれたな。」
 と、いかにも嬉しそうに言って、二人にあぐらになるようにすすめた。それから、
「わしのうちに生徒がたずねて来てくれたのは、君らがはじめてじゃ。君らがはじめての終りじゃな。」
 と、わざとらしく笑ったが、その声はうつろで淋しかった。
 次郎も新賀も、返事のしようがなくて、默って首をたれていると、先生は一人でいろんなことを喋り出した。
「わしゃ、頭がわるい。じゃが、今日校長先生が言われたように、真心はあるんじゃ。」とか、「今度行く学校は女学校じゃが、そこでは数学だけでなく、受持の組の修身もやることになっているんじゃ。」とか、くすぐったいような言葉があとからあとから出て来たが、かんじんの次郎との一件には決してふれようとしなかった。二人はあくまで神妙な顔をして聞いていた。しかし、いつまでたってもきりがない。で新賀がついにたずねた。
「先生、お手伝いはいつがいいんでしょう。」
「そうじゃな。」
 と、先生はちょっとまごついたような顔をして、答をしぶった。そして大きな指を折って日数を読んでいたが、
「試験の答案がまだ残っているんじゃ。受持の組の通信表はほかの先生がやって下さることになっているんじゃが、それでも、荷物の片づけは明後日までは出来んじゃろ。」
 二人は間もなく先生の家を辞したが、先生は二人をおくって階段をおりると、奥の方に向かって叱るように言った。
「学校の生徒がたずねて来てくれたんじゃよ。お茶も汲まんでどうしたんじゃな。」
「おや、まあ。」
 そうこたえて出て来たのは、肺病ではないかと思われるほど、顔色の悪い、やせた女だったが、わざわざ土間におりて二人を見おくった。二人は門口を出ると、むせるように蚊やりの煙の流れている町を、沈默がちに歩いた。

     *

 さて翌々日の夕方、二人はもう一度宝鏡先生を訪ねて行ったが、驚いたことには、家はもう空家になっており、閉された戸に一枚の半紙が貼りつけてあって、それには郵便物の転送先の学校名が記されていたのだった。
「どうしたんだろう。」
 二人は、その半紙を見つめて、しばらく立ちすくんだあと、すぐその足で朝倉先生をたずね、事情をきいてみた。しかし、朝倉先生も何も知らなかったらしく、二人の話で、しきりに首をかしげていたが、
「じゃあ、もう多分たたれたんだろう。学校の方には私から知らしておく。しかし、あさっては、君ら二人だけでもいいから、念のため示された時刻に駅に出てみるがいいね。」
 翌々日、二人は、言われ
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