っている。しかし、世間普通のそうした団体のように、正面切って改革を叫んだり、集団行動に出たりするようなことはほとんどない。団員は、月に何回となく集まって、意見を出しあい、議をねり、計画を定め、その実現を誓いあうが、それをその団体の決議だなどといって、大ぴらに発表したりすることは決してない。彼らは、それがめいめいに出来ることだったら、默って率先躬行するし、村全体でやらなければならないことだったら、めいめい自分の近しい人から、茶飲み話の間に角立てないで説き伏せて行く。そんなふうで、いつの間にやら、村の気風を改め、世論を指導して行くので、大ていの人は、そんな団体の存在をはっきり知らないし、知っても気にとめない。いわば村の地下水となって村民の生活の根をうるおしているようなものだ。こういうのが、ほんとうの意味で公共に仕える道ではないか。――
次郎も、話がそこまで進むと、「白鳥芦花に入る」が、何だかぼんやりわかって来たような気がした。
「それにくらべると――」
と、先生は、ちらと大沢を見た眼を次郎の方に転じながら、
「大沢のやりかたには、やはり足りないところがある。むろん、自分を売るといったような不純な気持が大沢に少しでもあったとは私は思わない。大沢も、もうそこいらはとうに突きぬけているよ。しかし、とにかく大沢という人間が、けばけばしく出過ぎて、古い型の英雄になってしまった事はたしかだ。いわば、真黒な鳥が白い芦の花の中に飛込んだようなものだね。」
みんなが思わず笑い出した。大沢は、顔をまっかにしながら、
「わあっ、今日は、僕、台なしだな、次郎君も、もう僕を弁護するのはよしてくれよ。」
それで、また、一しきり笑い声が賑やかだった。その笑い声がしずまるのを待って、先生は次郎に言った。
「どうだ、もうたいてい意味だけはわかったろう。真白な鳥が、真白な芦原の中に舞いこむ、すると、その姿は見えなくなる。しかし、その羽風のために、今まで眠っていた芦原が一面にそよぎ出す、というのだ。お互いに、この白鳥の真似がしてみたいものだね。しかし、なかなかむずかしいぞ。それがほんとうに出来るまでには、よほど心を練らなくちゃならん。自分の正しさに捉われて、けちな勝利を夢みているようでは、とても白鳥の真似は出来るものでない。良寛のような人でも、「千とせのなかの一日なりとも」と歌っているくらいだからね。」
次郎は、頭に蔽《おお》いかぶさっていたものを、一時にとり去られて、青い空を仰ぐような気持だった。が、同時に、朝倉先生が、いつの間に自分の心をこれほど深く見ぬいたのだろう、と、何か恐ろしい気もした。彼は、思わず部屋じゅうの人たちの顔を、そっと見まわした。すると、いつの間にはいって来たのか、部屋の入口の、円座から少しさがったところに、奥さんがつつましく坐って、こちらを見ていた。その眼は、次郎の眼をとらえると、にっこり笑ったが、
「ね、わかったでしょう。」
と、そう言っているような眼だった。
次郎は、これまで、白鳥会というものを、ただ、真面目な生徒たちの集まりだ、というふうに、ぼんやり考えていたが、この晩の集まりで、先生の心のなかには、もっとはっきりしたねらいがあるということに気がついた。しかも、そのねらいは、誰に向けられているよりも、より多く彼自身に向けられているような気さえしたのである。彼は、それ以来、本を読むにも、人に接するにも、何かこれまでとはちがった角度に立って、ものを見るようになった。ことに、伝記物などを読んでいて、以前なら感心したであろうと思われるところに、あまり感心しなかったり、大して注意をひかなかったであろうと思われるところに、かえって深い興味を覚えたりした。また、おおかた一年近くも、彼の幼い思想の、唯一の拠りどころとなっていた「無計画の計画」という言葉にも、彼は自分で知らない間に、新しい意味をつけ加えていた。それは、もはや彼にとって、単に彼をとり囲む運命の神秘を意味するだけではなく、彼自身の心を、もっと自然な、作為のないものにするための指標として役立つようになっていたのである。
次郎の幼年時代をくわしく知っている読者なら、誰でも気づいたであろうように、そのころ彼は、精力の半ば以上を、周囲の人々の彼に対する気持を推しはかることに費していた。かつて、私は、「次郎にとって何の自制心も警戒心も必要としないただ一人の相手、嘘であろうと、誇張であろうと、そのままにうけ入れてくれるただ一人の相手、そして、かりに腹を立てあうにしても、腹を立てあうことそのことが愛のしるしでさえあるようなただ一人の相手、それは乳母のお浜だけであった。」というような意味のことを書いたが、じっさい彼は、お浜以外の人のいるまえで、作為のない自然な行動に出たことは、めったになかった。彼は、人目をぬすんで火薬を弄《もてあそ》び、大怪我をして苦しんでいた時ですら、周囲の人々の驚きや、心配や、同情の程度をひそかに測定することを忘れず、彼の過失に対する非難がどうやら彼のうめき声で帳消しになったらしいのを知って喜んだくらいである。彼の悪行も、善行も、純粋に彼自身のものであることは極めてまれであった。それを刺戟したものは、たいていの場合、周囲の人々の思わくだったのである。彼が、「愛せられる喜び」から「愛する喜び」へ心を向けかえようと努力したのも、そうした自分の弱さや醜さに嫌悪を覚えたからであったが、しかし、それとても、まだほんとうに純粋なものだったとはいえなかった。やはり、彼の心のどこかには、病床にあった母のために、自分の小遣いから、少しばかりの牛肉を買って戻ったころのほめられたい気持が、まだしみついていたのである。彼は、白鳥会の仲間、とりわけ大沢や新賀の、物ごとに渋滞《じゅうたい》しない、率直な態度を見るにつけ、それがはっきり自覚されて来た。「無計画の計画」という言葉が、彼にとって新しい意味をもつようになったのも、そのためだったのである。
はた目にはいかにもあれ、彼が白鳥会の一員となってからの内面的闘争には、涙ぐましいものがあった。「円を描いて円を消す」――「白鳥芦花に入る」「無計画の計画」――「誠」――そうした言葉は、会の集まりの席ではむろんのこと、家庭でも、学校でも、そのほかどんは場所ででも、彼の心を往復した。彼の一言一行は、そうした言葉のどれかを思い起すことによって、用心ぶかく選まれ、そして省みられたといっても、言いすぎではなかったのである。しかも、それで彼の言動の自然さがいくらかでも取りもどせたかというと、決してそうではなかった。それどころか、それらの言葉がいつも彼の頭にこびりついていることが、却って彼の心を束縛し、彼の言動の自然さをぶちこわすことにさえなるのだった。彼は作為すまいとする作為によって、手も足も出ないことがあった。それは、彼にとって大きな矛盾《むじゅん》であったにちがいない。しかし、彼自身では、少しもその矛盾には気がついていなかったのである。
だが、彼がこの矛盾に気がつかなかったということは、彼の前途にとって、必ずしも不幸なことではなかったであろう。というのは、円を消すには先ず円を描かなければならないし、無計画の計画は、計画をつきぬけた人だけにしか出来ないことだからである。次郎は青年期に入ってまだ間もない人間だ。幼年時代にうけた心のきずは、そう早く枯れてしまうものではない。そのきずが深ければなおさらのことだ。なるほどそれにこだわるのは、見た目に決していいものではない。本人も、むろん苦しかろう。だがこだわりにこだわって、こだわりぬいたところに、ほんとうにこだわらない道がひらけるのだ。私たちは、そう思って、朝倉先生と共にゆっくり彼の将来を見まもって行きたいのである。
一〇 淋しき別離
それから約一年が過ぎた。次郎も、もう三年生である。
大沢と恭一とは、卒業後そろって高等学校の文科にはいった。大沢は政治に志し、恭一は文学に志していたのである。
白鳥会も、その間に少しずつ人数を増して行って、三十数名になったが、みな、それぞれの学年で粒よりのものばかりだった。一般の生徒からは、少し変り者扱いにされ、かげでは、「鵞鳥」とか、「あほう鳥」とか、「孔子の枯糞」とか呼ばれることもあったが、それでいて、何とはなしにみんなに尊敬されているといったふうであった。それには大沢の在校中の言動があずかって力があったことはいうまでもない。ことに、彼が鉄拳制裁問題で闘って以来、彼の下級生からうけた信望は大したものであった。それがやがて五年生の大部分にも反映して、朝倉先生が心配したように、彼らが二派にわかれて争うというようなことにもならないですんだ。こうして彼の存在が生徒たちの眼に大きく映るにつれて、白鳥会員全体が、何か犯しがたい力をもっているもののように思われて釆たのである。
次郎の心境も、この一年あまりの間に、たしかにいくらかの進歩を見せた。周囲の思わくにこだわるくせからは、まだすっかりぬけ切ってはいなかったが、こだわったあとで、それを取り繕ったりするような二重のこだわりは、よほど少くなっていた。それだけに、彼自身の気持もいくらか軽くなり、周囲の人々も、彼が次第に快活になって行くのを喜んだ。
「本田も、このごろ、いくらかすべりがよくなったようだね。しかし、上滑りは禁物だ。」
朝倉先生は、白鳥会の集まりの時に、一度そんな事を彼に言った。――白鳥会では、恭一がまだ在校していたころは、恭一を「本田」と呼び、次郎を「次郎君」と呼ぶならわしだったが、恭一の卒業後は、いつとはなしに次郎が「本田」と呼ばれるようになっていたのである。
宝鏡先生と彼との関係は、それ以来少しも発展しなかった。一年級の終りまでは、――といっても、事件後僅か一ヵ月あまりだったが、――教室でおたがいに多少気まずい思いをしながらも、事なくすんだ。次郎の学年成績の通信表に記された数学の点は七十五点で、彼の出来栄え相当であった。ただ、彼は内心いくらか不満に思ったのは、第一、第二学期とも甲であった操行評点が乙にさがっていたことであった。しかし、彼は、それを宝鏡先生のせいにする気には不思議になれなかった。操行評点は学級主任が原案を作ってそれを職員会議にかけて決定する、ということをかねて聞いていた彼は、罪は小田先生にあるような気がしていたのである。
二年に進級すると、数学の受持の先生が変って、次郎は、宝鏡先生とはほとんど顔をあわせる機会がなくなった。彼はそれでほっとした気にもなったが、また一方では、先生が二年級について来なかったということが、全く自分のせいででもあるような気がして、何かすまない気持だった。そして、式や何かの場合には、彼はいつも、講堂の隅っこの席に行儀よくかしこまっている先生の姿を、遠くから注意ぶかく眺めていた。彼の眼には、先生の姿がいつもしょんぼりしているように見えた。人なみはずれた巨大な体躯であるだけに、それが一層淋しく思えるのだった。そんな時、彼がきまって思い出すのは、朝倉先生の「課題」だったが、それは時として彼を物悲しくさえさせるのだった。
こうして、とうとう彼は三年に進んだが、その第一学期の試験も明日で終るという日の朝、彼が校門をはいると、すぐ右手にある掲示場の前に、十四五名の生徒がたかって、やんやと何かはやし立てていた。中には、遠方にいる生徒たちを大声で呼んだり、手招きしたりしているものもあった。彼も、ついそれに誘われて、急いで近づいてみると、そこには黒塗の掲示板が二枚かかっており、まだ十分に乾ききれない白堊の毛筆書きで、その一方には、「教諭心得宝鏡方俊、願ニ依リ本職ヲ免ズ」とあり、もう一方には、「明○○日第一学期終業式後宝鏡先生ノ送別式ヲ行ウ」とあった。次郎は、それを見た瞬間、妙に胸をしぼられるような気がした。そして、しばらくは白堊の文字を見つめたまま、ほかの生徒たちの騒ぎの中に、じっと突っ立っていた。
「とうとうやめたのか。」
「しかし、よく辞職したね。」
「論旨《ゆし》さ、
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