「考えてごらんになって?」
「まだ、あまり考えていません。」
「考えようにも、ちょっと、どう考えていいかわかりませんわね。白い鳥が芦の花の中にはいるって、ただそれだけなんですもの。禅の文句なんて、まるで謎《なぞ》みたいなものですわ。」
 次郎は、世間で、わけのわからぬ言葉を禅問答みたいだ、というのを、これまでよく聞いたことがあったが、こんなのが禅の言葉かな、と思った。
「だけど――」
 と、奥さんは、にっこりして、
「意味はわからなくても、いい気持のする文句でしょう?」
 次郎は、ふと、自分の生れ故郷の、あの沢辺の晴れた秋景色を想像した。そこには芦が密生していて、銀色の穂波がまばゆいように陽に光っている。一羽の真白な鳥が、ふわりと青空を舞いおりて、その穂波に姿をかくした光景は、何ともいえない美しさだった。
「どう? 次郎さんは何とも感じません?」
「美しいと思います。」
「美しいというよりか、すがすがしいといった方がぴったりしなくって?」
「ええ。」
 次郎は、彼がこれまでに接したいかなる女性にも――亡くなった母にさえも――見出せなかったものが、この奥さんの言葉の中からしみ出て来るのを感じた。
「先生はね、――」
 と、奥さんは、今度は掛軸の方に眼をやりながら、
「良寛のあの歌にある“まこと”というのは、この額の文句と同じような気持だろうって、よくそう仰しゃっていますの。」
 次郎には、しかし、その二つがどんな点で結びつくのか、まるでわからなかった。彼は、けげんそうな眼をして奥さんの顔を見ながら、
「すると、白鳥芦花に入るっていうのは、誠という意味ですか。」
「そう言ってしまっても、いけないでしょうけれど、煎《せん》じつめると、そうなるかも知れませんわ。」
「どうして、そうなるんです。」
「そこを次郎さんが自分で考えてみるといいわ。」
 奥さんは、そう言って微笑した。が、しばらくして、
「でも、このままじゃ、あんまり手がかりがなさ過ぎるわね。……あたし、先生に叱られるかも知れないけれど、その手がかりだけ教えてあげますわ。」
 次郎は、それをきくのがちょっと卑怯なような気がしないでもなかった。しかし、その気持は奥さんの好意に甘えてみたい気持をおしつぶすほどに強くはなかった。彼は、いくぶん顔をあからめて、奥さんの言葉を待った。
「芦の花って真白でしょう。その真白な花が一面に咲いている中に真白な鳥が舞い込んだっていうのですわ。」
 奥さんは、それだけ言うと、また微笑した。そして、
「もうこれでおしまい。ほほほ。」
 と、謎のような笑い声を残して、階下におりて行ってしまった。
 次郎は、それから小半時も、掛軸と額とを見くらべながら、ひとりで考えこんだ。しかし、いくら考えても、彼の頭では、「白鳥入芦花」と「まこと」とを結びつけることが出来なかった。彼は、芦原の中に、きょとんとして立っている良寛の姿を想像したりして、何だか馬鹿にされているような気がするのだった。

    九 自己を掘る

 次郎が「白鳥入芦花」の意味をどうなりつかみ得たように思ったのは、それからふた月以上もたって、彼が二年に進級したあと、はじめて白鳥会が開かれた晩のことだった。
 その晩の話題は、期せずして、新五年生の下級生に対する態度に関係したことに集中され、とりわけ、大沢が級会において、多数の五年生を相手に猛烈な論争をやったことが、興奮と感激とをもって語られた。
「じっさい、大沢君の論鋒《ろんぽう》は鋭かったよ。痛快だったね。」
「やつらがいきり立てばいきり立つはど、大沢君、落ちつくんだからね。すっかり感心しちゃったよ。」
「しかし、汝ら罪なき者彼らを打て、という文句を引き出して、やつらを睨みまわした時には、大沢君もさすがにちょっと興奮していたようだったね。」
「あの時、誰か隅っこの方から、アーメンなんて野次った奴がいたぜ。」
「あんなのが一番下劣だね。真正面からぶっつかって来る奴は、まだ脈があるんだが……」
「しかし、大沢君が、おしまいに、大の字なりに寝ころんで、下級生を鉄拳制裁する代りに、おれを踏むなり蹴るなりしろ、と呶鳴った時には、どうなることかと心配したよ。」
「あの時は、さすがに奴らもしいんとなってしまったね。」
 佐野や恭一や、そのほかの新しい五年生たちが、代る代るそんなことを言った。大沢はただにやにや笑って聞いていた。朝倉先生も、腕組をしたまま、默々として聞き入っていたが、急に、大沢に向って、
「で、結局、どう落ちついたんだ。」
「お流れです。しかし、僕、最初っから僕たちの考えにまとまるとは考えていなかったんです。お流れになれば成功でしょう。」
「うむ――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えて、
「しかし、このままではいけないね。このままでは、どうせ鉄拳制裁の悪風はやまんよ。」
「しかし、そういうことを五年生全体の特権のように考えていたことだけは、これで破ることが出来たと思います。」
「その代り、病気を深部《しんぶ》に追いこんだことになるかも知れんね。」
「はあ?」
 と、大沢はその大きな眼をぱちぱちさした。すると、先生の澄んだ眼が、かすかに笑って、
「君もまだ、案外、形式主義者のようだね。」
 大沢は、すっかりあわてて、膝を立て直した。ほかの生徒たちも、これは案外だという顔をしている。
「むろん、五年生全体の名において、下級生に鉄拳制裁を加えることが、これまで当然のことのように考えられていたのは、この学校の一番の悪風だ。だから、君が、今度五年生になったのを機会に、それを打破しようとしたのは、決して間違いではない。ただその方法に問題があるんだ。何だか、いま聞いたところでは、化膿《かのう》した盲腸を叩きつぶして、腹膜の原因を作った、といった恰好ではないかね。」
「そんなことになるんでしょうか。」
「どうも、そうなりそうだね、鉄拳制裁の好きな連中は、これから、こそこそ勝手な行動に出るよ。ちょうど盲腸からとび出した膿《うみ》のように。」
 大沢は、少し眼を伏せて考えこんだ。
「なるほど、五年全体の名において大っぴらにそれがやれなくなれば、形式としては前よりはよくなるわけだ。しかし、実質的には一層始末に終《お》えないものになるかも知れん。実は、学校として、そのことで、これまで五年生に強圧を加えなかったのも、そうなるのを恐れたからなんだ。」
「すると、いつまでもこのままにして放って置かれるつもりだったんですか。」
「そうではない。君らの眼にはどう映っていたか知らないが、大垣校長が、赴任されて以来、内々最も苦心されて来たのは、そのことなんだ。幸い、葉隠の四誓願が、そのまま校訓同様のものになっていたし、校長は、あの大慈悲という言葉を強調して、じりじりと辛抱づよく今日まで努力してこられたんだ。もうそろそろまる四年になるね。校長が赴任されたのは今の五年生が一年の二学期をむかえたときだったんだろう。」
 朝倉先生は、そう言って、感慨深そうに、みんなの顔を見まわしていたが、
「吉田松陰の言葉に、天下は大物だ、一朝の奮激では決して動くものではない、それを動かそうと思えば、誠を積まなければならない、といったような意味のことがあるが、一つの学校を動かすにも、やはり同様だね。校長が辛抱強く誠を積んで来られたればこそ、君らのように、進んで校風刷新のために戦おうという生徒も何人かあらわれて来たんだ。君らほどの熱意はなくても、心の中では、君らに味方したいと思っていた生徒が、きっとほかにも沢山あるだろう。四五年前とはたしかに全体の空気が変って来ているよ。この分で、もう二三年も努力すれば、自然に悪風もなくなるだろうと、いつも校長とお話していたところだったがね。」
 大沢は、いつになく、首を垂れて聴いていたが、
「すると、僕、校長先生のお考えをぶちこわすようなことをしてしまったんでしょうか。」
「ぶちこわしたというほどでもないだろう。しかし、校長は、五年が二派にわかれて争うようなことになってはならないって、いつもそれを心配していられたんだ。生徒には、もともと善玉も悪玉もない。それが、はっきり善玉と悪玉とにわかれてしまって、学校が、やむを得ず善玉のあと押しをしなければならんようになっては、教育もおしまいだ、というのが校長のお考えでね。実は、私も、そのお言葉をきいた時には、はっとしたよ。わざわざあんな下手な字なんか書いて、この会の名をそれに因《ちな》んでつけることにしたのも、そのためだったんだ。」
 次郎は眼をかがやかした。
「とにかくはっきりした対立的な情勢を作ったのは、君の失敗だったよ。白鳥芦花に入る気持がほんとにわかっていたら、もっとほかに方法が見出せそうなものだったがね。」
 大沢は、しきりに首をふった。ほかの生徒たちも、お互いに顔を見合わせて默りこんでいる。朝倉先生は、にこにこして、しばらくその様子を眺めていたが、
「こないだ、ある本を読んでいたら、こんな話が書いてあった。それは、支那の何とかいう禅宗の坊さんの話だがね。その坊さんが自分の弟子をほかのお寺にしばらく修行に出してやった。何年かたって、その弟子が帰って来たので、何か得るところがあったのか、とたずねると、弟子は默って地べたに円を描いて見せたそうだ。円が何を意味するのか、われわれ素人にはわからんが、とにかく何か悟りを開いたという意味なんだろう。ところで、そのあとが面白い。その円を見た師匠の坊さんは、たったそれっきりか、と呶鳴りつけたんだ。すると弟子は、今度はその円をさっさと消してしまった、というのだ。どうだい、大沢、円を消してしまったところが非常に面白いではないかね。」
「はあ――」
 大沢は少しも面白そうな顔をしていない。
「君も、どうなり、五年生相当な円を描くことは出来るようになったらしいが、まだその円を消すところまでは行っていないようだね。」
「はあ――」
 大沢は、また「はあ」と答えた。今度は、しかし、何か思いあたるところがあるといったような返事の仕方だった。朝倉先生は、たたみかけて、
「君が、大の字なりに寝転んで、たんかを切ったところなんか、まるで円の上を三角で上塗りしたようなものだったね。それじゃ、せっかくの円も台なしだよ。」
「すみません。」
 大沢は、その大きな肩をすぼめて、右手で後頭部をおさえた。
 次郎は、さっきから、二人の対話に一心に耳を傾けていたが、大沢がすっかり弱りきっているのが、ふしぎでならなかった。彼は七つ八つの子供のころ、「饅頭虎」と「指無し権《ごん》」という二人のならず者が、酒の座で喧嘩をはじめ、父の俊亮がその仲裁にはいったときの光景を思い起していた。父は、その時、両肌をぬいで二人の間に割って入り、「それほど喧嘩がしたけりゃ、おれを片づけてからにせい。おれの眼玉の黒いうちはお互いに指一本ささせないぞ。」といったようなことを大声でどなり、すぐ二人を平身低頭させたが、その時の感激は今に忘れられない。大沢のやったことも、それと同じではないか。自分の身をなげ出して不正を防ごうとしたことが何で悪いのだろう。次郎には、そんな気がしてならなかったのである。で、彼はいきなり先生にたずねた。
「大沢さんのやったこと、どうして悪いんですか。」
 先生は、しばらく返事をしないで、まじまじと次郎の顔を見ていたが、
「君には、ちょっとむずかしいかな。」
 と、またしばらく言葉を切って、
「君は、あの額の意味を考えてみたのかい。」
「考えてみました。しかし、わかんないです。」
「ふむ――じゃあ、今日はいい機会だから、ひととおり話しておこう。はじめての人はよくきいておくんだ。」
 そう言って、朝倉先生は説明をはじめた。しかし、その説明は、最初のうち、額に書いてある文字には少しもふれなかった。話は、先ず、先生がこのごろよく座談会などに出かけて行く近在の村の事から始まった。
 その村には、三十台ぐらいの若い人たちが、二十数名集まって、一つの団体を作り、いつも村のことを研究し、熱心に村生活の調和と革新とを図《はか》
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