ていた。
「どうだい、次郎君、君、どうする? 宝鏡先生にあやまるんかい。」
 大沢がたずねた。次郎は、ちょっと返事にまごついたようだったが、
「僕、もっと考えます。」
 と、はっきり答えて、先生の顔を見た。先生は、
「そうだ。うんと考えるがいい。気持がほんとうに練れるまでは、五年でも十年でも考えるがいい。私は君の心の中でそれが練れるのをいつまでも待っている。一方では宝鏡先生にあやまる気になり、もう一方では大沢や新賀と絶交したい気になるような、ちぐはぐの心境では、全く剣呑《けんのん》だからね。」
 みんなが笑った。朝倉先生は凉しい眼をして次郎を見ていた。が、しばらくして、
「苦しむのはいいことだよ。」
 と、しんみりした声で、ぽつりと言った。それから、今度は、じっと新賀の方を見ていたが、
「君も、少し苦しんでみるがいい。ここでは、大沢や本田のような、苦しみたい連中がちょいちょい集って話しあいをすることになっているが、君もよかったら、これから次郎君といっしょにやって来たまえ。今のところ、三年以上の生徒ばかりだが、君らの仲間もこれから少しずつふえるだろう。」
 煎餅を平らげて四人がおいとましたのは、十時に近かった。奥さんが、門をしめかたがた、みんなを送って出て来たが、別れぎわに、次郎に言った。
「きょうはいじめられましたわね。……でも面白いでしょう。これにこりないで、またいらっしゃいね。」
 次郎は、なぜか、亡くなった母と、日田町の田添夫人との顔を同時に思い浮かべながら、默ってお辞儀をした。そして、暗い通りに出ると、新賀とならんで、沈默がちに歩いた。歩きながら今朝からのことを心の中でくりかえしているうちに、ふと「無計画の計画」という言葉が、新たに彼の頭に甦《よみがえ》って来た。彼は、思わず歩度をゆるめた。そして、闇をすかして、大沢の大きな体をうしろから見上げた。ちょうどその時、大沢は、
「おい、新賀君、どうやら次郎君と絶交しなくてもすみそうだね。わっはっはっ。」
 と、あたりに響きわたるような大声で笑った。

    八 白鳥会

 朝倉先生を中心にした生徒たちの集りを「白鳥会」といった。会員はこれまで十五名で、みんな三年以上の生徒ばかりだったが、今度、あらたに二年から三名、それに次郎と新賀とが一年から加わって、ちょうど二十名になった。たまには、日曜とか祭日とかに、そろって遠足をしたり登山をしたりすることもあったが、普通は、毎月第一土曜と第三土曜の二回、夕食後、先生の宅に集まって、代りばんこに何か話題を提供し、それについてお互いに感想や意見を述べあい、そのあと時間があれば、先生に何か簡単な話をしてもらって、十時ごろには解散する、といったふうであった。
 集まりには、いつも先生の書斎兼座敷と、その次の間とが使われたが、そのほかに、二階の八畳が、会員の図書室として年中開放されていた。玄関のつきあたりの階段をのぼったところがその部屋で、そこには、一間ものの本箱が一つと、うるしのはげた大きな卓が一脚すえてあった。本箱には、先生の読みふるしの本がいっぱいつまっており、たいていは、歴史や、伝記や、古典の評釈や、定評のある文芸物などで、新しい作家のものはほとんど見当らなかった。なお、会員が持ちよったらしい青少年向のいろんな読物が、一番下の段に三十冊あまりならんでいたが、それらは、先生の読みふるしの本とちがって、かなり装幀がくずれており、どの頁にも色鉛筆で、線や圏点《けんてん》が入れてあった。――集会の折の話題の半分以上は、この部屋での読書から生れるらしかった。
 次郎は、会員になってから、ほとんど一日おきぐらいには、学校の帰りにこの部屋に立ち寄った。すると、たいてい誰かが来合わせていた。たまには五六人もいっしょになることがあった。誰もがそれぞれ特色を持ちながら、どこかに何か共通な気持が流れているのが、次郎にもよく感じられた。時おり、誰かが奥さんに呼ばれて、力のいる仕事の手伝いをさせられたり、買物に行く間の留守居を頼まれたりすることがあったが、呼ぶものも、呼ばれるものも、まるで家族同様の気軽さだった。次郎には、そうした空気が、何か珍らしくもあり、嬉しくもあった。
 奥さんには子供がなかった。女中もつかわず、全く先生と二人きりだったが、用がない時には、ちょいちょいこの部屋にやって来て、「今、何を読んでいらっしゃるの?」とか、「あたしこの本、面白いと思うわ」とか、みんなの邪魔にならない程度に簡単な言葉をかけ、自分もいっしょになって何か読み出すといったふうだった。小床には、いつも何か花が活《い》けてあり、また卓の上にも一輪差が置いてあって、花がしおれないうちに必ず新しいのと取りかえられていたが、そうしたことは、すべて奥さんの心づくしであった。
 いつ来て見ても変っていないのは、掛軸と額だった。掛軸には、和歌らしいのが、むずかしい万葉仮名で、どこからどう読んでいいかわからないように書いてあり、額には漢字が五字ほど、これも読みにくい草書体で書いてあった。次郎には、むろん、何が書いてあるのやらさっぱりわからなかった。また、それを判読してみようという気にもならなかった。彼の眼には、どこの家にもある掛軸や額以上のものには、それが映らなかったのである。もっとも、何度もこの部屋に出入りしているうちに、額にある最初の二字だけは、いつの間にか彼の眼にとまるようになった。それは、「白鳥」と書いてあるらしく、会の名称と深い関係があるように思えて来たからであった。
「あれは、白鳥と読むんでしょう。」
 と、ある日、彼はちょうど来合せていた佐野という四年の生徒にたずねた。
「そうだよ。君、今まで知らんかったのか。」
 次郎は頭をかきながら、
「こないだから、そうじゃないかと思ってたんですが……」
「なあんだ、僕たちの会の名は、あの字にちなんでつけてあるんじゃないか。」
「僕、そう思ったから、きいてみたんです。」
「すると、君の兄さん、まだそれを君に教えてなかったんだね。」
「教わりません。」
「案外、君の兄さんものんきだなあ。今日、帰ったら、よく教わっとけよ、あの意味を。」
 佐野は、そう言って、読みかけていた本の頁をめくった。
 次郎は、しかし、もう帰るまで辛抱が出来なかった。彼は一心に額を見つめて判読しようとつとめた。「白鳥」の次の字は「入」という字にちがいないと思ったが、しかしそのあとの二字がどうしても読めなかった。
「おしまいの二字は何という字です。」
 彼は、とうとうまたたずねた。
「芦花だよ。あしの花さ。」
「すると、白鳥……芦花に入る、と読むんですね。」
「そうだ。白鳥芦花に入る。……しかし芦という字は実際変な字だねえ。誰だって教わらなきゃ、わからんよ。」
「誰が書いたんでしょう。」
 額は無|落款《らっかん》だったのである。
「先生だそうだ。」
「先生が? どうして、誰にもわかるように楷書で書かれなかったんでしょう。」
「楷書で書くと、生徒より下手だから、みんなが有りがたがらないだろうって、冗談言っていられたよ。」
 佐野はそう言って笑った。次郎も笑ったが、すぐ真顔になって、
「どうして会の名をこの文句にちなんでつけたんでしょう。」
「それは、この文句に深い意味があるからさ。」
「そんなに深い意味があるんですか。」
「あるとも、大いにあるよ。」
「どういう意味です。」
「それはね。――」
 と、佐野は本を伏せて、次郎の方に体をねじむけたが、急に、
「あっ、そうだ。いけない。めったに教えちゃいけなかったんだ。君の兄さんも、それで教えなかったんだな。僕、うっかりしていた。」
 次郎は、変な顔をして、
「どうして教えてはいけないんです。」
「ついこないだ、先生にそう言われたんだ。はじめての人には、文字だけは教えてやってもいいが、意味は、一応めいめいに考えさしてみるがいいって。……僕たちが会員になった時には、真っ先に先生にそれを説明してもらったもんだがね。」
 次郎は、そう言われると、もう強いて教わろうという気がしなかった。彼は、もう一度額の字を見つめた。そして、何度も、口の中で「白鳥芦花に入る」をくりかえしていた。
 佐野は、次郎の様子をにこにこして眺めていたが、
「そうせっかちに考えたってわからんよ。すいぶんむずかしいんだから。それよりか、どうだい、あの掛軸の方は。あの方なら、字が読めさえすれば、意味はだいたいわかるよ。」
 次郎は、返事をしないで、そろそろと掛軸の方に眼を転じた。しかし、心はまだ額の字に未練を残しているらしかった。
「読めるかい。」
「読めません。どこから読むんです。」
「あのまん中の大きく書いたところから読むんだよ。」
 佐野は立ちあがって掛軸のそばに行き、一字一字、指で文字をたどりながら読んでやった。それによると、
「いかにして まことのみちに かなはなむ ちとせのなかの ひとひなりとも」
 というのであった。これには落款があり、左下の隅っこに変った形の朱印が一つ押してあった。
「意味はわかるだろう、だいたい。」
「ええ、わかります。」
 恭一の感化もあって、次郎にもこの程度の和歌なら、字づらだけの意味はどうなりわからないこともなかったのである。
「良寛の歌だってさ。」
「良寛?」
「知らないかい。面白い坊さんだよ。その本箱の中にも、良寛のことを書いたのが何冊かあるんだがね。」
 二人はすぐ本箱の前に立って、それをさがしはじめた。
「これがいい、これが一等面白いんだ。」
 佐野が、そう言って次郎の手に渡したのは、「良寛上人」という、四六判の、あっさりした装幀の本だった。
 次郎はすぐそれを読み出した。そのうちに、会員が五六名も部屋を出たりはいったりしたが、それが誰だったかもわからなかったほど、彼は熱心にそれに読みふけった。佐野もいつの間にかいなくなっていた。もううす暗くなっている部屋の中にたった一人坐っている自分を見出して、彼はやっと未練らしく立ち上り、本を本箱にかえした。まだ半分も読み終ってはいなかったが、本は一切室外には持出さない約束になっていたのである。
 翌日も、彼はさっそくこの部屋にやって来た。その日は、めずらしく彼一人だった。彼は昨日読みのこした部分を一気に読み終った。そしてほっと大きなため息をもらし、あらためて掛軸に見入った。昨日以来、「良寛上人」を読んでいるうちに、何か不思議な世界につれこまれていたといった気持だったのである。彼は、子供たちを相手に隠れん坊をして遊んでいるうちに、おいてきぼりを食った良寛の姿を、夢を追うような気持で心に描いた。それは、まるで合点《がてん》の行かない、それでいて否定してしまうには惜しくてならない、なつかしい姿だった。「焚くほどは風がもて来る落葉かな」――そんな句も、妙に彼の心にこびりついていた。本に説明してあることだけでその意味がはっきりつかめたというのではむろんなかったが、なぜか、良寛とは切りはなせない句のような気がしてならなかったのである。
 彼は、いつの間にか、掛軸にある「まこと」という言葉は、これまで修身の時間などで教わった「まこと」とは意味がちがうのではないか、という気がし出した。しかし、ただぼんやりそんな気がするだけで、どうちがうのか、それをはっきりさせる手がかりはまるでつかめなかった。彼は、ただ、何度も何度も、掛軸の文字に眼を光らせるだけだった。
「おや、きょうはたったお一人?」
 奥さんが、いつの間にはいって来たのか、次郎のすぐうしろから、声をかけた。次郎はびっくりしたようにふりむき、体を横にねじってお辞儀をした。
「なに読んでいらしたの?」
「これです。」
「ああ、良寛上人、――それ、あたしもついこないだ読みましたわ。いい本ね。面白かったでしょう。」
「ええ。」
「あの掛軸、良寛の歌ですわ。読めて?」
「昨日、佐野さんに教わりました。」
「そう? あの額の方は?」
「字の読方だけ教わったんです。」
「意味は自分で考えてみるんだって、言われたんでしょう。」
「ええ。」
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