生がこれまで自分の威厳《いげん》を保つために蓄えていたわずかばかりの心のゆとりも、もうめちゃくちゃだった。
「こいつ!」
 と、先生は、自分が先生であることも、対手が自分の三分の一か四分の一しかない小さな生徒であることも忘れ、その大きな両手で、机ごしに次郎の制服の襟のあたりを鷲づかみにして、引きよせた。むろん、もうその時には、ほかの生徒たちの視線など気にかけている余裕はなかったのである。
 次郎の体は襟首をつかまれて、机の上に蔽《おお》いかぶさったが、彼は、何と思ったか、そのまま両腕を机の下にまわして、柔道の押え込みのような姿勢になった。そのはずみに、筆入が床に落ち、鉛筆や、ペンや、メートル尺や、小さな三角定規などが、がらがらと音を立ててあたりに飛び散った。
 先生は、次郎を机から引きはなそうとあせったが、次郎の体は、まるでだにのように机にしがみついていた。むりに引き起すと、机の脚が宙に浮いた。その間に、先生の息づかいは次第に烈しくなり、顔色は気味わるいほど蒼ざめて来た。
 ほかの生徒たちは、もうその時には総立ちになっていたが、ふしぎに、誰も声を出す者がなかった。しかし、次郎の机の脚が
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