をうけ、それから、まじまじと次郎を見ていたが、
「お母さんが、心配していなさりませんかな。早う帰って安心させてお上げ。」
 次郎はただ顔を赧《あか》らめただけだった。
 朝飯は、茶の間で家の人たちといっしょによばれた。広い土間の隅の井戸端で洗面を終ると、そのまま食卓に案内されたが、ゆうべにひきかえて、そこにはもうたくさんの顔がならんでいた。
「さあ、さあ。」
 と、七十ぐらいの、品のいい、小作りなお婆さんがまず三人に声をかけた。お婆さんと同じちゃぶ台には、三人の男の子がならんでいて、めずらしそうに次郎たちを見た。昨夜の老人の顔はそこには見えなかった。
 次郎たちのためには。べつのちゃぶ台が用意されていた。大沢がお婆さんにあいさつをしてそのそばに坐ると、恭一と次郎とがつぎつぎにその通りをまねた。さっきの女の人がちゃぶ台にのせてある飯|櫃《びつ》と汁鍋の蓋をとって、
「さあさ、めいめいで勝手に盛ってな。」
 と、自分は子供たちのちゃぶ台にお婆さんに向きあって坐った。
 次郎たちには、葱の味噌汁がたまらなくおいしかった。何杯もかえているうちに、顔がほてって汗をかきそうだった。
 食事中に、お婆さんが一人でいろんなことを訊《たず》ね、いろんなことを話した。その話で、三人はおおよそ家の様子も想像がついた。昨夜の老人は村長で、今朝も早く何か特別の用があって出かけたらしい。子供たちの父になる人は、五六里も離れたところの小学校の校長だが、土曜日に帰って来るのだそうである。
「お爺さんは、今日はな、十時頃までに役場の用をすまして帰って来るけに、それまであんたたちに待ってもろたら、と言うとりましたが。……また滝にでも案内しようと思うとりますじゃろ。」
 お婆さんは、そう言って、歯のぬけた口をつぼめ、ほっほっほっと笑った。
 食事がすむと、子供たちは、いかにも次郎たちに気をひかれているような様子で、学校に行った。老人は、それから間もなく帰って来たが、すぐ三人のために弁当の用意を命じ、自分は炉のはたで一通の手紙をしたためた。
「滝まで行って来るでな。」
 お婆さんにそう言って、老人が三人をつれ出したのは、ちょうど十時頃だった。三人はいつものようにお礼の金を置くことも忘れてしまい、渡された竹の皮包みの弁当をぶらさげて、老人のあとについた。
 老人の足は矍鑠《かくしゃく》たるものだったが、それでも三人の足にくらべるとさすがにのろかった。しかし、滝までは三十分とはかからなかった。滝は、老人がみちみち自慢したとおり、世に知られないわりには頗る豪壮[#「豪壮」は底本では「豪荘」]なもので、幅数間の、二尺ほどの深さの水が、十丈もあろうかと思われるほどの断崖を、あちらこちらに大しぶきをあげて落下していた。滝壺に虹があらわれ、岩角の氷柱がさまざまな色に光っていたのが、いよいよ眺めを荘厳にした。名を半田の滝というのだった。
 寒さも忘れて三十分ほども滝を眺めたあと、三人が老人にわかれを告げると、老人は、懐《ふところ》からさっき書いたらしい手紙を出して、
「たいがいにして日田まで下るんじゃ。日田に行ったら、この宛名の人をたずねて行けばええ。中にくわしく書いておいたでな。」
 と、それを大沢にわたした。大沢は、手紙を押しいただいたまま、いつものとおりには言葉がすらすらと出なかったらしく、何かしきりにどもっていた。手紙の宛名には日田町○○番地田添みつ子殿とあり、裏面には白野正時とあった。
 三人は、それから、その日とその翌日とを、やはり無計画のまま、やたらに歩きまわった。その間に、竜門の滝という古典的な感じのする滝を見たり、何度も小さな温泉にひたったりした。そしてふところもいよいよ心細くなったので、白野老人のすすめに従って、それからは、まっすぐに日田町に下ることにした。
 日田町までは一日がかりだった。町について田添ときくと、すぐわかった。りっぱな医者のうちだった。一晩厄介になっているうちにわかったことだが、みつ子というのはその医者の奥さんで、白野老人の末女に当るのだった。この人がまた非常に親切で、歳はもう四十に近かったが、まるで専門学校程度の、聰明で快活な女学生のようだった。筑水下りの船も、前晩からちゃんと約束しておいてくれたらしく、朝の八時頃には、家のすぐ裏の河岸に、日田米をつんだ荷船がつながれていた。船賃も夫人が払ってくれた。
 三人はまるでお伽噺の世界の人のような気持になって船に乗った。船が下り出すと、みつ子夫人は河岸からしきりに手巾《ハンカチ》をふった。
「無計画の計画も、こううまく行くと、かえって恐ろしい気がするね。」
 大沢は船が川曲をまわって手巾が見えなくなると、二人に言った。
 次郎も恭一も、急流を下る爽快さを味うよりも、何か深い感慨にふけっているというふ
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