うだった。川幅の広いところには、鴨が群をなして浮いていたが、次郎はそれにもほとんど興味をひかれないらしかった。大沢が、
「鉄砲があるといいなあ。」
と言うと、彼は妙に悲しい気にさえなるのだった。そして船が巖の間をすれすれに急|湍《たん》を下る時にも、叫び声一つあげず、じっと船頭の巧みな櫂《かい》のつかい方に見入り、かつて何かで読んだことのある話を思い出していた。それは、水に溺れかかったある偉大な宗教家が救助者に身を任せきって、もがきもしがみつきもしなかったという話だった。
船が久留米に近づいて、水の流れがゆるやかになったころ、彼はこっそり恭一に向かって言った。
「無計画の計画ってこと、僕も少しわかったような気がするよ。」
四 宝鏡先生
筑後川上流探検旅行が次郎に与えた影響は、決して小さなものではなかった。「無計画の計画」というのは、最初大沢が半ば冗談めいて言い出したことだったが、それは、次郎にとっては、彼がこれまで子供ながら抱いて来たおぼろげな運命観や人生観に、ある拠《よ》りどころを与えることになった。彼は、それ以来、身辺のほんのちょっとした出来事にも、その奥に、何か眼に見えない大きな力が動いているように感じて、ともすると瞑想的になるのだった。それが、著しく彼を無口にし、非活動的にした。学校での一番にぎやかな昼休みの時間にも、よく、校庭の隅っこに、一人でぽつねんと立っている彼の姿が見られた。家で、恭一と二人、机にむかっている時、どうかすると、だしぬけに立ちあがって、恭一の本箱から詩集や修養書などを引き出して来ることがあったが、それは、いつも何かに考えふけったあとのことだった。そして、詩集や修養書を自分の机の上にひろげても、べつにそれを読みいそぐというのではなく、同じ頁にいつまでも眼を据えているといったふうであった。教科書の方の勉強は、こんなふうで、自然いくらかおろそかになりがちだったが、次郎自身それを気にしているような様子もなかった。
彼のこうした変化が、周囲の人々の眼に映らないわけはなかった。しかし、彼を見る眼は、人々によってかなりちがっていた。俊亮は、「少し元気がなさすぎるようだ。体でも悪くしたんではないか」と言い、お祖母さんは、「次郎もいよいよ落ちついて来たようだね」と言った。お芳は、そのいずれにもあいづちをうっただけだったが、お祖母さんの態度がいくらかずつ次郎に対して柔《やわ》らいで行くのを見て、内心喜んでいるようなふうだった。
次郎のほんとうの気持を多少でもわかっていたのは、恭一だけだったが、彼自身がどちらかというと非活動的であり、内面的な傾向をもっているだけに、次郎のそうした変化によって、お互いの親しみが一層増してゆくような気さえしていた。
次郎のことを、最も真面目に心配し出したのは、あるいは大沢だったかもしれない。彼はある日、恭一に向かって言った。
「次郎君が考えこんでばかりいるのを、ぼんやり眺めているのは、いけないよ。あんなふうでは、次郎君の特長は駄目になってしまう。」
「しかし、どうすれはいいんだい。」
恭一は、大して気乗りのしない調子でたずねた。
「たまには、喧嘩の相手になってやるさ。」
「次郎は、しかし、もう喧嘩はしないよ。しないって誓っているんだから。」
「それがいけないんだ。子供のくせにひねこびた聖人君子になってしまっちゃあ、おしまいじゃないか。」
「でも、うちじゃあ、やっと喧嘩をしなくなったって、みんな喜んでいるんだからなあ。」
「そりゃあ、お祖母さん相手の喧嘩なんか、しない方がいいさ。しかし、兄弟喧嘩ぐらいは、たまにはいいよ。ことに、室崎をやっつけた時のような喧嘩なら、大いにやるがいいと思うね。」
「ふうむ。……しかしあんな喧嘩なら、今でも機会があればやるだろう。」
「どうだかね、今の様子じゃあ。……僕が一つ相手になって試《ため》してみるかね。」
「試すって、どうするんだい。」
「思いきり無茶な事を言って、怒らしてみるんだ。」
「君が何を言ったって、それを本気にはしないよ。」
「本気にするまでやってみるさ。」
「しかし、そんなにしてまで喧嘩をさせる必要があるかね。」
「あるよ。僕は、あると思うね。今のままじゃあ、妙に考えが固まってしまって、どんな不正に対しても怒らなくなるかも知れんよ。」
大沢は頗るまじめだった。そして、次郎を怒らす機会の来るのを、本気でねらっているらしかった。しかし、その機会が来るまえに、思いがけない事件が次郎を待伏せていて、大沢の苦心を無用にしてしまったのである。
*
次郎たちの数学の受持に、宝鏡方俊というむずかしい名前の先生がいた。七尺に近いと思われる堂々たる体躯《たいく》の持主で、顔の作りもそれに応じていかにも壮大な感じを与えたが
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