ょう。」
「それは、この文句に深い意味があるからさ。」
「そんなに深い意味があるんですか。」
「あるとも、大いにあるよ。」
「どういう意味です。」
「それはね。――」
 と、佐野は本を伏せて、次郎の方に体をねじむけたが、急に、
「あっ、そうだ。いけない。めったに教えちゃいけなかったんだ。君の兄さんも、それで教えなかったんだな。僕、うっかりしていた。」
 次郎は、変な顔をして、
「どうして教えてはいけないんです。」
「ついこないだ、先生にそう言われたんだ。はじめての人には、文字だけは教えてやってもいいが、意味は、一応めいめいに考えさしてみるがいいって。……僕たちが会員になった時には、真っ先に先生にそれを説明してもらったもんだがね。」
 次郎は、そう言われると、もう強いて教わろうという気がしなかった。彼は、もう一度額の字を見つめた。そして、何度も、口の中で「白鳥芦花に入る」をくりかえしていた。
 佐野は、次郎の様子をにこにこして眺めていたが、
「そうせっかちに考えたってわからんよ。すいぶんむずかしいんだから。それよりか、どうだい、あの掛軸の方は。あの方なら、字が読めさえすれば、意味はだいたいわかるよ。」
 次郎は、返事をしないで、そろそろと掛軸の方に眼を転じた。しかし、心はまだ額の字に未練を残しているらしかった。
「読めるかい。」
「読めません。どこから読むんです。」
「あのまん中の大きく書いたところから読むんだよ。」
 佐野は立ちあがって掛軸のそばに行き、一字一字、指で文字をたどりながら読んでやった。それによると、
「いかにして まことのみちに かなはなむ ちとせのなかの ひとひなりとも」
 というのであった。これには落款があり、左下の隅っこに変った形の朱印が一つ押してあった。
「意味はわかるだろう、だいたい。」
「ええ、わかります。」
 恭一の感化もあって、次郎にもこの程度の和歌なら、字づらだけの意味はどうなりわからないこともなかったのである。
「良寛の歌だってさ。」
「良寛?」
「知らないかい。面白い坊さんだよ。その本箱の中にも、良寛のことを書いたのが何冊かあるんだがね。」
 二人はすぐ本箱の前に立って、それをさがしはじめた。
「これがいい、これが一等面白いんだ。」
 佐野が、そう言って次郎の手に渡したのは、「良寛上人」という、四六判の、あっさりした装幀の本だった
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