見ても変っていないのは、掛軸と額だった。掛軸には、和歌らしいのが、むずかしい万葉仮名で、どこからどう読んでいいかわからないように書いてあり、額には漢字が五字ほど、これも読みにくい草書体で書いてあった。次郎には、むろん、何が書いてあるのやらさっぱりわからなかった。また、それを判読してみようという気にもならなかった。彼の眼には、どこの家にもある掛軸や額以上のものには、それが映らなかったのである。もっとも、何度もこの部屋に出入りしているうちに、額にある最初の二字だけは、いつの間にか彼の眼にとまるようになった。それは、「白鳥」と書いてあるらしく、会の名称と深い関係があるように思えて来たからであった。
「あれは、白鳥と読むんでしょう。」
と、ある日、彼はちょうど来合せていた佐野という四年の生徒にたずねた。
「そうだよ。君、今まで知らんかったのか。」
次郎は頭をかきながら、
「こないだから、そうじゃないかと思ってたんですが……」
「なあんだ、僕たちの会の名は、あの字にちなんでつけてあるんじゃないか。」
「僕、そう思ったから、きいてみたんです。」
「すると、君の兄さん、まだそれを君に教えてなかったんだね。」
「教わりません。」
「案外、君の兄さんものんきだなあ。今日、帰ったら、よく教わっとけよ、あの意味を。」
佐野は、そう言って、読みかけていた本の頁をめくった。
次郎は、しかし、もう帰るまで辛抱が出来なかった。彼は一心に額を見つめて判読しようとつとめた。「白鳥」の次の字は「入」という字にちがいないと思ったが、しかしそのあとの二字がどうしても読めなかった。
「おしまいの二字は何という字です。」
彼は、とうとうまたたずねた。
「芦花だよ。あしの花さ。」
「すると、白鳥……芦花に入る、と読むんですね。」
「そうだ。白鳥芦花に入る。……しかし芦という字は実際変な字だねえ。誰だって教わらなきゃ、わからんよ。」
「誰が書いたんでしょう。」
額は無|落款《らっかん》だったのである。
「先生だそうだ。」
「先生が? どうして、誰にもわかるように楷書で書かれなかったんでしょう。」
「楷書で書くと、生徒より下手だから、みんなが有りがたがらないだろうって、冗談言っていられたよ。」
佐野はそう言って笑った。次郎も笑ったが、すぐ真顔になって、
「どうして会の名をこの文句にちなんでつけたんでし
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