。
次郎はすぐそれを読み出した。そのうちに、会員が五六名も部屋を出たりはいったりしたが、それが誰だったかもわからなかったほど、彼は熱心にそれに読みふけった。佐野もいつの間にかいなくなっていた。もううす暗くなっている部屋の中にたった一人坐っている自分を見出して、彼はやっと未練らしく立ち上り、本を本箱にかえした。まだ半分も読み終ってはいなかったが、本は一切室外には持出さない約束になっていたのである。
翌日も、彼はさっそくこの部屋にやって来た。その日は、めずらしく彼一人だった。彼は昨日読みのこした部分を一気に読み終った。そしてほっと大きなため息をもらし、あらためて掛軸に見入った。昨日以来、「良寛上人」を読んでいるうちに、何か不思議な世界につれこまれていたといった気持だったのである。彼は、子供たちを相手に隠れん坊をして遊んでいるうちに、おいてきぼりを食った良寛の姿を、夢を追うような気持で心に描いた。それは、まるで合点《がてん》の行かない、それでいて否定してしまうには惜しくてならない、なつかしい姿だった。「焚くほどは風がもて来る落葉かな」――そんな句も、妙に彼の心にこびりついていた。本に説明してあることだけでその意味がはっきりつかめたというのではむろんなかったが、なぜか、良寛とは切りはなせない句のような気がしてならなかったのである。
彼は、いつの間にか、掛軸にある「まこと」という言葉は、これまで修身の時間などで教わった「まこと」とは意味がちがうのではないか、という気がし出した。しかし、ただぼんやりそんな気がするだけで、どうちがうのか、それをはっきりさせる手がかりはまるでつかめなかった。彼は、ただ、何度も何度も、掛軸の文字に眼を光らせるだけだった。
「おや、きょうはたったお一人?」
奥さんが、いつの間にはいって来たのか、次郎のすぐうしろから、声をかけた。次郎はびっくりしたようにふりむき、体を横にねじってお辞儀をした。
「なに読んでいらしたの?」
「これです。」
「ああ、良寛上人、――それ、あたしもついこないだ読みましたわ。いい本ね。面白かったでしょう。」
「ええ。」
「あの掛軸、良寛の歌ですわ。読めて?」
「昨日、佐野さんに教わりました。」
「そう? あの額の方は?」
「字の読方だけ教わったんです。」
「意味は自分で考えてみるんだって、言われたんでしょう。」
「ええ。」
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