ないといえるだろうか。それを思うと、僕はまだ十分に運命に打克ってはいないのだ。
 夜、頭のはげた老人が父をたずねて来た。店の道具一切をそのまま譲りうけて、この家で酒屋を引きついで行く人がきまったということは、こないだ父にきかされていたが、この老人がその人だったのだ。ちょっと見るとやさしいようで、実はずるそうな人だった。
「お引越先がおきまりまでは、私の方はいつまでもお待ちします。」と言うかと思うと、「こちらの家主さんとも、じきじきお会いして、話はもう何もかもつけてありますので、へへへ。」と手をもみながら変な笑い方をした。春月亭のお内儀さんなんかより、こんな人の方がほんとうにいけない人なのかも知れない。それは、こんな人にはどこから「鑿」をあてていいのかわからないからだ。
 この老人のような人間が、世の中にはかなり多いのではあるまいか。いや、どうかすると、たいていの人間がそうであるかも知れない。そう思うといやになる。――しかし、僕はこんなことを考えてはいけなかったのだ。朝倉先生は、「人間に例外はない、人の本心はみんな美しいのだ」とはっきり言われたのではなかったか。

 八月二十三日
 今日は珍しく父も外出しなかった。しかし、家の中にいなければならない用事もなかったらしく、一日中、おちつきはらって何か本を読んでいた。祖母にはその落ちつきが気に入らなかったらしい。口では何とも言わなかったが、父を見る眼はいつも光っていた。
 母のほがらかな顔と無口とは、いつものことだが、今日はそのほがらかな顔がとくべつ祖母には目立ったらしい。祖母の母を見る眼は。父を見る眼よりも一層とがっていた。しかし、口に出しては、やはり何とも言わなかった。
 家中のものが、こんな時に、一日中ほとんど口をききあわないというのは、いやなものだ。僕は母が無口であることを、今日ほど物足りなく思ったことはない。
 僕は、その沈默を破りたいと思って、夕方俊三と二人で二階で歌を歌い出したが、すぐ祖母に「やかましい」と言って叱られた。

 八月二十四日
 昨夜は寝てから前途のことを考えてみたが、ちっとも考えがまとまらなかった。ほんとうに行き詰ったら、祖母の言うとおり、学校をよしてどんな仕事でもするんだ、と強いて考えてみたが、気持は少しも落ちつかなかった。そして、なぜか、お浜のことが思い出されてならなかった。
 今日は起き
前へ 次へ
全122ページ中106ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング