の人たちだけが、ちょっと眼を見はって貼紙を読んだ。しかし、それも大して驚いた様子はなく、中には変な微笑さえもらしたものがあった。
僕は、この冷淡さに、最初はかえってほっとする気持だった。しかし、あとではたまらない腹立たしさを感じて来たので、午後からは一度ものぞいて見なかった。
仙吉も文六も、奉公先が見つかったらしい。或は、もうとうに見つかっていたのかも知れない。父は、給料のほかに金一封ずつを包んで二人に暇をやった。夕飯には、二人の送別会をかねて、何か御馳走があるはずだったが、二人共それを断って、午飯をすますとすぐおいとまをした。僕は、しかし、この二人が道行く人達のように冷淡であったとは思いたくない。
父が家のものみんなに閉店の決心を話してから、もう今日で四日になるが、昨日まで飯時にさえなると泣いたり怒ったりしていた祖母が、今日はふしぎに静かだった。疲れたのか、あきらめたのか、僕にはわからない。しかし、考えてみると、誰よりも打撃をうけたのは祖母だろう。祖母はもう間もなく七十だ、いたわってやらなければならないと思う。だが、僕の胸のどこかに、過去の思い出を清算しきれない[#「きれない」は底本では「きれいな」]気持がまだいくらか残っていはしないか。
兄に手紙を書く。祖母は、兄に閉店のことを知らせてはいけない、と言った。しかし、僕はこれには絶対不賛成だ。今はお互いに事実をかくすことが何よりもいけないことなのだ。
八月二十二日
父は朝早くからどこかに出かけた。父が出かけると間もなく母も出かけた。父は夜になって帰って来たが、母は三時頃にはもう帰っていた。
二人の留守中、祖母は僕と俊三とを呼んで、「母さんが今日出かけたことは、父さんに默っておいで。」と言った。
それから、さんざん父をけなしたあと、「こんなふうではどうせ学校どころのさわぎではないよ。どうだえ、次郎、早く思いきって一本立ちになる気はないのかえ。」と言った。聞いていてあまり愉快ではなかったが、さほどに腹も立たなかった。僕はただ、「考えてみます」と答えただけだった。俊三はべつに問われもしなかったので、答えもしなかった。
僕はまだ祖母をほんとうには愛しきれないようだ。以前のように、そう憎いとは思わないが、愛しているとは絶対にいえない。僕は、昨日、道行く人々の冷淡さに腹を立てたが、僕自身、祖母に対して冷淡で
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