うのは、そう思う人自身の心がまだ十分に磨かれていないからだ。同じ大理石を見ても、ミケランゼロにはその中に女神が見出せたし、彼の友達にはそれが苔だらけの石にしか見えなかったんだからね。」
 しばらく沈默がつづいた。次郎は地べたを、朝倉先生は次郎の横顔を見つめていた。奥さんはうしろから、二人を等分に見くらべていたが、心から次郎をいたわるように言った。
「ほんとうに大事なことですけれど、あたしたちにはむずかしいことですわね。」
「そりゃあ、誰にだってむずかしいことだよ。こんなことを言っている私自身にも、毎日、人間の汚ないところばかりが眼について、いいところはなかなか見えないんだ。学校にいても、どうかすると、生徒がみんな駄目なような気がして、逃げ出したい気持になることがあるよ。」
 次郎は、おずおずと先生の顔を見上げた。先生はちょっと笑って見せたが、すぐ真顔になって、
「しかし、私は決して逃げ出しはしない。逃げ出すまえに自分を省みるんだ。そして生徒の心に神を見ることが出来ないのは、自分の心に神が育っていないからだと思うんだ。そう思うと、ひとりでに謙遜にならざるを得ない、教えるとか、導くとかいう傲慢《ごうまん》な心は、いっぺんに消しとんで、ただ生徒のために祈りたい気持になって来る。何か大きなものに、祈って、祈って、祈りぬいて、自分を捧げきってしまいたい気持になって来る。ところが、そうなると、不思議に胸の奥から何とも知れない力が湧いて来るんだ。そりゃあ、自分ながら変な気がするよ。しかし考えてみると、私が、これまでどうなり学校というものに絶望しないで勤めて来たのは、そうした、反省というか、へり下るというか、或は祈るというか、とにかく自分というものを何とかしようと骨を折って来たおかげなんだ。」
 次郎は、昨日天満宮のまえで味った気持をもう一度思いおこした。そして、それが先生の言っているのと同じ気持ではないだろうか、という気がして、異様《いよう》な興奮を覚えたが、やはり、口に出しては何とも言いかねた。すると、先生は、急に笑い出し、
「いや、話がつい自分のことになってしまって、ますかったね。熱っくるしい話は、今日はもうこれで打切りだ。」
 と、コップを置いて立ち上りかけた。
「貴方、お菓子はいかが。」
「そうか、お菓子があったんだね。どうだい、本田さっさと平らげて畑をやろうじゃないか。
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