鑿って、さっきのミケランゼロの話だよ。本田は、つまり、そのお内儀を女神に刻みあげてやろうというわけだったんだ。」
「あら、そう。あたし、すっかりほんとうの鑿かと思って、どきりとしましたわ。ほほほ。」
「まさか、ごろつきではあるまいし、ねえ本田。」
 と、朝倉先生は、また大きく笑った。
 次郎は、しかし、少しも笑わなかった。彼は、むしろ、いくぶん暗い顔をして二人の話に耳を傾けていたが、先生の笑い声がしずまると、だしぬけに言った。
「先生、僕は春月亭のお内儀を女神にしようなんて、そんなことちっとも考えていなかったんです。僕は、ただ、僕の悪かったことをあやまろうと思っただけなんです。」
「ふむ――」
 と、朝倉先生は、空になったコップの底を見入るように、しばらく眼をふせていたが、
「そりゃそうかも知れん。しかし、それでいいんだ。いや、それがいいんだ。そんなふうに自分を反省して、へり下る気持になることが、相手を清めることになるんだ。自分の力を信ずるといっても、自分が一段高いところに立って、人を救ってやるというような気持になったんでは、人を救うどころか、却って世の中をみだすだけだ。要するに人間はめいめいに真剣になって自分を磨けばいいんだよ。もともと、自信というのは、決して自分を偉いと思いこむことではなくて、自分を磨きあげる力が自分に備わっていると信ずることなんだからね。」
 次郎は、かつて「葉隠」の中で読んだことのある、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」という剣道の達人の言葉を思いおこした。しかし、自分が自分をどんなに磨いても、その結果、春月亭のお内儀のような人間を少しでも美しくすることが出来ようとは、どうしても思えなかった。
「しかし、先生――」
 と、彼は、いくぶん口籠《くちごも》りながら、
「世の中には、どんなに真心をつくしても、それの通じない人間もあるんじゃありませんか。」
「例えば春月亭のお内儀のように、と言うんだね。」
「はい。僕は、あんな女にも女神が擒にされているなんて、とても思えないんです。」
「そんなことを言えば、話はまた逆もどりするだけだ。」
「しかし、例外ということもあるんでしょう。」
「人間に例外はない。人間の本心はみな美しいんだ。」
 朝倉先生の言葉はきっぱりしていた。次郎がびっくりしたように眼を見張っていると、
「人間の心に例外があると思
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