り、また顔をふせた。
「むろん、中学を出るぐらいのことは、何とかなるさ。しかし、そのあとは、そう簡単にはいかんからね。兄さんだって、大沢がついていなけりゃ、ちょっと心配だよ。」
「僕。まだ志望をきめてないんですから、これからよく考えます。」
「うむ、何もいそぐことはない。しかし、あまりぐずぐずもしておれんね。それに、自分の一生に関する実際問題をじっくり考えてみるのは、いい修行だ。春月亭のお内儀なんかと取っくむよりゃ、ずっと取っくみ甲斐があるよ。はっはっはっ。」
 次郎は思わず頭をかいた。朝倉先生は、かんかん帽をとりあげて、
「じゃあ、そろそろまた畑の手入をはじめるかな。どうだい、本田、君も少し手伝わないか。畑にだって、女神が擒にされているかも知れんよ。」
「はい、手伝います。」
 と、次郎は、急いで上衣をぬいだが、下には膚着も何も着ていなかった。色の浅黒い、あまら肉附のよくない胸が、じっくり汗ばんで、柿の葉の濃いみどりの陰にあらわだった。
「しかし、少し喉が乾くね。麦湯のひやしたのがあるはずだから、君、とって来てくれないか。」
「はい。」
 次郎は、風呂小屋をまわって台所の方に走って行ったが、間もなく奥さんと二人で何か楽しそうに話しながら帰って来た。奥さんは手製らしい寒天菓子を盛った小鉢と、コップ二つとを盆にのせて持っており、次郎は、一升入りのガラスびんを抱くようにして持っていた。ガラスびんからは冷たい雫がたれていたが、その中にいっぱいつまった琥珀《こはく》色の液体をすかして、次郎の胸がぼやけて見えた。
「ここの方がよっぽど凉しゅうございますわ。やっぱり木陰ですわね。」
 と、奥さんは、盆を柿の木の根元におろすと、ちょっと梢を仰ぎ、鼻の下の汗を手巾でふいた。
「そりゃあ、家の中より凉しいさ。しかし、今日はここで本田と少し熱っくるしい話をしたんで、案外喉が喝いてしまったよ。」
 朝倉先生は、次郎がなみなみとついでくれたコップに手をやりながら、そう言って笑った。
「そう?」
 と、奥さんは、うなずくとも、たずねるともつかない眼付をして、次郎を見た。次郎は、自分のコップに、ちょうど麦湯をつぎ終ったところだったが、ちらと奥さんの顔をのぞいたきり、きまり悪そうに視線をおとした。
「いかが、本田さん。これ、おいしいのよ。」
 と、奥さんは菓子を盛った鉢を次郎の方にちょっとずらし
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