していたんでは、かんじんの鑿がすりきれてしまいはせんかね。」
 朝倉先生は、そう言いながら、笑っていた。次郎はちょっとまごついたふうだったが、すぐ、決然となって、
「僕、間違っていました。僕は決してつぶれない鑿になるんです。」
「しかし、つぶれない鑿なんて、あるかね。」
「あります。」
「どんな鑿だい。」
「それは、先生がさっき仰しゃったように、信ずることです。自分が努力さえすれば、それだけ世の中がよくなると信ずることです。」
「うむ、その通りだ。人間の心の鑿は、彫刻家の鑿とはちがって、そうした信の力さえ失わなければ、決してつぶれるものではない。いや、堅いものにぶっつかればぶっつかるほど、かえって鋭くなって行くのが、人間の心の鑿だ。むろん、人間には過ちというものがある。また、自分のせっかくの真心が通らないで、かえってそのために侮辱をうけることもある。それは君が現に春月亭で経験したとおりだ。過ちを犯せば悔みたくもなるだろうし、侮辱をうけたら腹もたとう。しかし、それはそれでいいんだ。そのために信の力がくじけさえしなければ、後悔の涙も怒りの炎も、そのまますばらしい力となって生きて来るんだ。」
 朝倉先生は、そう言って、両手を次郎の肩にかけ、強くゆすぶりながら、
「いいかね。……あぶないところだったよ。」
 と、いかにも慈愛にみちた眼で次郎の眼に見入った。
 次郎の眼も、しばらくは先生の眼を見つめたまま動かなかった。しかし、その視線はそろそろと先生の裸の胸をすべり、しまいにがくりと地べたに落ちていった。そして、もうその時には、彼の汗ばんだ制服の腕が、その眼からこぼれ落ちるものを拭きとろうとして、急いで顔におしあてられていた。
 朝倉先生は、かなり永いこと同じ姿勢《しせい》で立っていたが、やがて次郎の背をなでるようにして両手をはなし、「君がこれから真剣に考えなけりゃならん問題は――」と、いかにも考えぶかい調子で、
「もしお父さんの事情がそんなふうだとすると、君自身の将来をどうするか、という実際問題だ。さっきからの君の話では、兄さんはもう自分で何とか考えているらしいね。兄さんには大沢という友達もいるから、きっとうまく切りぬけて行くだろう。君も、自分でしっかり考えてみるんだよ。」
 次郎はいそいで涙をふいた。そして、いくぶん恥しそうに顔をあげたが、ただ、
「はい。」
 と答えたき
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