ればならない、と言った。そして、その大理石を自分のアトリエに運びこませ、それから毎日丹念に鑿《のみ》をふるっていたが、とうとう、それを見事な女神の像に刻みあげてしまったそうだ。この話は、何でもないと言ってしまえば、何でもない話だ。彫刻家が自分の気に入った大理石を見つけ出して、それを彫刻するのは、何も珍らしいことではないからね。しかし、考えようでは、人生のすばらしい真理がその中に含まれているとも言えるんだ。どうだい、この話をきいて何か感ずることはないかね。」
 次郎は、ちょっと首をかしげていたが、
「女神が擒《とりこ》にされている、と言ったのが面白いと思います。」
「面白いって、どう面白いんだ。」
 次郎には、説明は出来なかった。彼は、ただ、何とはなしにその言葉が面白く感じられただけだったのである。朝倉先生は微笑しながら、
「その擒にされた女神を救い出さなければならない、と言ったのも、面白いだろう。」
「はい。」
「さすがはミケランゼロだね。」
 そう言われても、ミケランゼロを知らない次郎には、返事のしようがなかった。
「千古の大芸術家だけあって、そんな簡単な言葉の中に、人生の真理を言い破っているんだ。」
 次郎はただ先生の顔を見つめているだけであった。
「わからないかね。」
 と、朝倉先生は、柿の木の根もとに投げ出してあったかんかん帽をかぶり、猿股の塵を払いながら、のっそり立ち上った。そして、
「じゃあ、これは宿題だ。君自身の問題と結びつけて、よく考えてみることだね。」
 次郎は、しかし、そう言われると、何もかも一ぺんにわかったような気がした。彼はやにわに立ち上って、先生のまえに立ちふさがるようにしながら、
「先生、わかりました。」
「どうわかったんだ。」
「人間の世の中は、草っ原にころがっている大理石のようなものです。」
「うむ。」
「その中には、女神のような美しいものが、ちゃんと具わっているんです。」
「うむ、それで?」
「僕たちがそれを刻み出すんです。」
「君が春月亭に行ったのもそのためだったんだね。」
「そうです。」
「しかし、君の鑿はすぐつぶれてしまったんじゃないか。」
「僕、もう一度|研《と》ぎます。」
「研いでもまたつぶれるよ。」
「つぶれたら、また研ぎます。」
 次郎は意気込んでそう答えた。
「そうか。しかし、そう何度もつぶしては研ぎ、つぶしては研ぎ
前へ 次へ
全122ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング