しかし、それにしても、今日の沈默ぶりはまた格別である。いつものそれとはまるで意味がちがっているらしい。次郎にはそんな気がしてならなかった。そして、それが、彼の興奮する感情をおさえおさえして、話の筋道をみだすことから、どうなり彼を救っていたのである。
 次郎の話が終ってからも、朝倉先生は、
「そうか。……ふむ。」
 と、返事とも、ひとりでうなずいたともつかない言葉を発したきり、しばらくは姿勢もくずさなかった。次郎は、最初手持無沙汰の感じだったが、沈默が永びくにつれて、それが、しだいに気味わるくさえ感じられて来た。彼は何度も先生の横顔をのぞいたり、足もとの草をむしったりした。風呂小屋と背中合わせになっている鶏小屋で、昼寝からさめたらしい鶏の声が、くっくっときこえて来たが、それで沈默がいくらかでも破れたのが、彼には、何かほっとする気持だった。
 鶏の声がきこえ出すと、朝倉先生も、急にいましめを解かれた人のように、手足の姿勢をくずして、顔を次郎の方にねじむけた。その澄んだ眼には、次郎の全く予期しなかった微笑がうかんでいた。同時に、その奥に、あるきびしい光が沈んでいたことも見のがせなかった。
 先生は、ごく静かな、しかし感情のこもった声で言った。
「本田、君は、ちょっとの間に、すばらしい経験をしたものだね。」
 次郎には、しかし、先生の言った意味がすぐにはのみこめなかった。酒甕に水をぶっこんで自分の短慮と卑劣さを暴露し、春月亭をたずねて自分の良心的行為に侮辱を与えられ、いわゆる「実社会」が幻滅の世界以外の何ものでもない、ということを学んだことは、彼にとって、実際、たえがたいほどのみじめな経験でこそあれ、すばらしいなどとは少しも思えないことだったのである。
 彼は、先生に冷やかされているのではないかという気がして、何か憤りに似たものさえ感じた。そして、じっと先生の顔を見あげていると、先生の眼からはしだいに微笑が消え、今まで底に沈んでいたきびしい光がその代りに表面に浮かんで来た。
「だが――」
 と、先生は、その眼で次郎の眼を射返すように見ながら、
「君のさっきからの話しぶりでは、せっかくのすばらしい経験も、まるで台なしになりそうだね。」
 次郎には、この言葉の意味も、よくは通じなかった。しかし、「すばらしい経験」と言われたのが、決して先生の冷やかしではなかった、ということがわか
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