うとうに休みのはずだがね。」
「今度の休みには帰らないかも知れないって、手紙でいって来ました。」
「帰らない? そうかね。どこかに旅行でもするのかい。」
「そうじゃないと思います。」
「ふうむ?」
 と、先生は、今まで地べたばかり見ていた眼をあげて、次郎を見た。
 次郎は、今日自分がたずねて来たわけを話し出すには、いいきっかけだと思ったが、いざとなると、切り出すのがいやにむずかしくなった。で、
「大沢さんも帰らないそうです。」
 と、つい遠まわしにそんなことを言ってみた。
「大沢も? そうか、じゃあ、二人で大いに頑張って勉強でもする気なんだろう。」
 次郎は、期待に反して、そんなふうにごく無造作に話を片付けられてしまったので、いよいよ切り出しにくくなり、しばらく默って突っ立っていたが、とうとう思いきったように、言った。
「先生、僕……今日は先生に聞いていただきたいことがあるんですが……」
 朝倉先生は、すると、やにわに立ち上った。そして次郎の顔をじっと見おろしたあと、
「そうか。……じゃあ、凉しいところに行こう。」
 二人は、畑と風呂小屋との間に大きく枝を張っている柿の木の陰に腰をおろした。
 次郎は、先生と二人で、こうして腰をおろしてみると、これまで胸につまっていたものが自然に溶けて行くような気がして、話し出すのが何か気恥しく感じられた。しかし、今更默っているわけにも行かず、先す恭一と大沢のことから店の事情、自分が店で仂いてみる決心をしたこと、昨日から今日にいたるまでの春月亭のいきさつ、と、ひととおり彼相応に順序を立てて話して行った。
 話して行くうちに、彼はさすがに自分の感情がひとりでに興奮して来るのを覚えた。そのために、言葉がもつれたり、とぎれたりすることも、しばしばだった。朝倉先生は、しかし、はじめからしまいまで、ほとんど無言に近い静けさできいていた。めったに合槌さえうたなかった。次郎の言葉が、もつれたり、とぎれたりしても、彼の方に顔をふりむけることさえしなかった。その眼は、いつも地べたの一点を凝視しているかのようであった。次郎は、興奮しつつも、先生のその静けさが変に気になった。むろん先生は、ふだんからそう口数の多い方ではない。よほどのことでないかぎり、生徒が話し終らないうちに、中途で口を出すようなことをしないのが、先生の一つの特徴にさえなっていたのである。
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