下駄をつっかけて、狭い庭を二三度往きかえりしていたが、
「次郎には、やはりまだ当分日除の必要があるようだ。お前ひとりで春月亭に行くのは、ちょっと危ないね。あすは父さんと二人であやまりに行こう。」
次郎は、もう何も言うことが出来なかった。
その晩、床についてから、次郎の頭に浮かんで来たのは、やはり、例の「無計画の計画」という言葉だった。そして「運命」と「愛」と「永遠」とは、この言葉の意味の生長と共に、そろそろと彼の心の中で接近しつつあったかのようであった。
一四 幻滅
翌日、俊亮と次郎とが春月亭をたずねたのは午前十時ごろだった。
白い襦袢《じゅばん》と赤い湯巻だけを身につけて、玄関で拭き掃除をしている女がいたので、俊亮がお内儀さんに取りつぐように頼むと、女は、中学の制服をつけた次郎をけげんそうに見ながら、
「お内儀さんにご用でしたら、帳場の方におまわり下さいね。」
と、いやに「ね」に力をいれ、ここはお前さんたちの出はいりするところではありませんよ、と言わぬばかりの冷たい調子でこたえ、そのまま雑巾《ぞうきん》をバケツの中でざぶざぶ洗い出した。
俊亮が、当惑したような顔をして、
「帳場の方は、どこから這入るんかね。」
と、玄関の横の格子窓に眼をやりながら、たずねると、
「門を出て左っ側ですよ。」
と、女はもう雑巾を廊下にひろげて、四つんばいになっていた。
俊亮は、苦笑しながら、門を出た。次郎もそのあとについて行ったが、何かを蹴とばしたいような、それでいて心細いような気持だった。
帳場の入口は、路地をちょっと曲ったところにあった。戸は開けっ放しになっていたが、中にはいると、なまぐさい匂いがむっと鼻をついた。
森閑としてどこにも人気がない。蠅が一しきり大鍋の上にまい立ったが、またすぐ静かになった。
「ごめん!」
俊亮が、奥の方に向かって大声でどなると、
「だあれ。」
と、少し甘ったるい声がして、十四五の女の子が、これも白い襦袢と赤い湯巻だけで出て来た。頸から上に濃く白粉をぬったのが、まだらにはげている。次郎は、ひとりでに顔をそむけてしまった。
「お内儀さんは? ――いるのかい。」
「ええ、――でも、今、ねているの。」
「本田が来たって言っておくれ。」
「本田さん?」
「そう、酒屋の本田って言えば、わかるよ。」
「ああ、あの酒屋さん――」
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