って来るか。」
「ええ、行って来ます。」
 次郎は、父の本心がわかったうえに、ほめてまでもらったので、初陣《ういじん》にでも臨むような、わくわくする気持で立ち上りかけた。俊亮は、しかし、彼を手で制《せい》しながら、
「まあ、まて。そう急いで行かなくてもいい。さっき仙吉をやって、あの酒はそのまま使わないで置いてもらうように頼んであるんだから。実は、あすの朝、向こうの忙しくない時に、私が行ってあやまるつもりでいたんだ。」
「僕は、父さんにあやまって貰いたくないんです。」
「どうして?」
「悪かったのは僕です。それに、父さんが、あんな女に――」
 次郎はうつむいて言葉をとぎらした。俊亮も、むろん、すぐ次郎の気持を察して、ちょっとしんみりしたが、わざと、とぼけたように、
「あんな女って、お内儀だろう。父さんがあの人にあやまってはいけないのかい。」
「だって――」
 次郎は適当な言葉が見つからなかった。俊亮は、しばらく答をまつように次郎の顔を見ていたが、
「次郎。」
 と、あまり高くはない、しかし、おさえつけるような声で、言った。
「自分に落度があったら、相手が誰であろうと、あやまるのが道だ。相手次第で、あやまったり、あやまらなかったりするようでは、まだほんとうに自分の非を知っているとはいえない。そりゃあ、お前が父さんにあやまらせたくない気持は、よくわかる。だが、あんな女だからあやまらせたくないというんだと、少し変だぞ。」
 次郎は、俊亮の言った意味はよくわかった。しかし、春月亭のお内儀に父を謝罪させる気にはまだどうしてもなれなかった。
「でも――」
 と、彼は少し口をとがらして、
「父さんには、ちっとも悪いことないんです。」
「うむ。……しかし、それはお前の考えることだ。むろん、お前はそう考えてもいい。だが、店のことは何もかも私の責任だからね。」
「だって、あれは肥田がつかった金の代りだっていうんじゃありませんか。」
「肥田は私の番頭だったんだ。それは、お前が私の息子であるのと同じさ。」
 次郎の感情は戸惑《とまど》いした。彼は、父のそんな言葉に、父らしい父を見出して、いつも頭がさがり、そのために一層懐かしくも思うのだったが、春月亭のお内儀にあやまらせたくない気持をそれで引っこめてしまう気にはなれなかったのである。
 俊亮は、次郎のまごついている顔を見て微笑した。それから庭
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