としたら、今夜にでもお出かけになるんじゃないか知ら。」
次郎は、また考えこんだ。すると、お芳はめずらしく感情のこもった声で、
「次郎ちゃんは、もうちっとも心配することないわ。お父さんは、こんなことになるのも、全く自分が悪いからだって仰しゃっているんだから。」
次郎の小鼻がぴくぴくと動き、ちゃぶ台のふちに、大きな涙がはねた。それから、しばらくして。
「僕……僕……」
と、どもるように言って立ち上ったが、両腕で眼をこすり、こすり、座敷に走りこんで行った。
俊亮は、その時、柱にもたれて向こうむきに坐り、しずかに団扇をつかっていたが、次郎が、自分の横にくずれるように坐ったのを見ると、少し体をねじ向けて、いかにも落ちついた声で言った。
「泣くことはない。自分でいいことをしたとさえ思っていなけりゃ、それでいいんだ。」
次郎は、しかし、そう言われると、いよいよ涙がとまらなかった。彼は、何か言おうとしては、しゃくりあげ、縁板に突っぱった両手をかわるがわるあげては、眼をこするだけだった。
「父さんは、お前があんなことをして得意になってやしないかと、それだけが心配だったんだよ。しかし、どっかに出ていったきり、いつまでも帰って来ないというので、そうでなかったことがわかって、実は、ほっとしていたところなんだ。お前も子供のころとはだいぶちがって来たようだね。」
俊亮は、そう言って、さびしく微笑した。それからちょっと考えたあと、
「父さんも、しかし、今日はいろいろ考えたよ。考えているうちに、世の中というものは、自分だけが貧乏に負けなけりゃあ、それでいいというものではない、ということがよくわかった。それに、もう一つ、――これはもっと大事なことだが、――父さんには、これまで非常に弱いところが一つあったということに気がついたんだ。それは、他人に対する義理人情にばかり気をとられて、かんじんの自分の親子に対する義理人情を忘れていたということだ。」
「父さん!」
と、次郎はしぼるような声で叫んで、涙にぬれた顔をあげた。
「いや、忘れていたと言っちゃあ、言いすぎるかも知れん。実際忘れちゃいなかったんだからね。しかし、忘れたような顔はたしかにしていた。忘れたような顔をしていりゃあ、みんな自分と同じようにのんきになってくれるだろうぐらいの考えが、どっかにあったんだ。今から考えると、それがいけなかっ
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